■女川空襲 悲惨さ伝える
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2008.11.27 |
当時女川駅勤務 記憶たどり手記
広島・福山市在住 旧桃生出身、須藤さん
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十二月八日の太平洋戦争開戦日を前に、戦時中の女川空襲の悲惨な体験の記憶をつむいで手記にまとめた人がいる。旧桃生町神取出身で広島県福山市在住の須藤良輝さん(八〇)だ。当時、旧国鉄女川駅員を勤め、米軍艦載機による空襲に遭遇。「若い搭乗員の顔が見えた」という超低空飛行による機銃掃射や、波状攻撃によって撃沈された日本軍掃海艇の様子などを克明に記している。
須藤さんは、開戦した年の一九四一年三月、旧桃生郡中津山村尋常高等小学校高等科を卒業して旧国鉄に就職。女川駅に配属された。同校卒業生による同級会が十一月に女川町内で開催されることを知り、「戦争体験を風化させず次世代に伝えたい」と執筆した手記を持参した。
「日本 本土空襲 女川町編」と題した手記は原稿用紙で十五枚分に及ぶ。四五年八月九日朝、「見たことのない双胴機が上空を飛び、金華山方向に消えた」と記述。空襲の偵察飛行だった。
翌十日午前八時ごろ、空襲警報が鳴り響くと同時に空襲が始まった。艦載機は五機編隊で約十分間隔で、午後四時まで襲来。延べ二百四十機の波状攻撃だった。
日本軍は掃海艇の高射砲や機関砲などで応戦するが、超低空飛行のため照準が合わず、撃墜できない。次々投下される爆弾で駅の貨物ホームのドラム缶が屋根を突き破り上空に打ち上げられる。機銃掃射をかいくぐり防空壕(ごう)に駆け込んだ様子などを鮮明に描写している。
空爆後の状況は陰惨そのもの。海の戦車のようでたくましく思えた二隻の掃海艇は船首を残し海中に沈み、海軍の官舎五棟も跡形もなく消えた。駅前広場は二百五十キロ爆弾で巨大なすり鉢状の穴があいた?と克明にたどった。
須藤さんは終戦の翌年まで女川駅に勤務。四五年三月十日の東京大空襲で家を失った疎開者が同駅に次々と降り立つ光景にも遭遇した。
「到着した列車はどれも超満員。母親が背中に赤ちゃんを背負い、片手では幼児の手をしっかりと握りしめていた。疲れていただろうが、『生』に向かい女川まで頑張り抜いた姿だった」と思い起こす。
須藤さんは「何かしらの役に立てば」と手記を女川町役場にも郵送する一方、十四日に町内であった同級会に出席した。
女川町を訪れるのは六十二年ぶり。町内の戦没者慰霊塔を訪ね、当時の記憶がより鮮やかによみがえったという。
須藤さんは「戦争は絶対にあってはならない。勝者も敗者もない。残るのは恐ろしさだけだ。次世代はしっかりと平和を築いてほしい」と願いを託している。 |
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