最近話題の映画などを記者の目からご紹介しているコラムです。

■東京シネマ巡り

 東京で映画のはしごをしてきた。街の空気を吸いながら映画館を巡り歩く。シネコンが主流の地方ではできなくなった。

 有楽町駅の中央口前は、若い人向けのビルができて景色が一変。その中に開館した映画館でトッド・ヘインズ監督の「アイム・ノット・ゼア」を見た。生ける伝説ボブ・ディランを扱っているが取り上げ方が面白い。ディランの人格を投影した六人による六つの物語という凝った構成で、六人の俳優が競演、ディランの複雑な人物像に迫る。

 近くにマリオン新館がある。目当てはリー・タマホリ監督の「NEXT?ネクスト」。フィリップ・K・ディックの原作の映画化は見逃せない。二分先に何が起きるか分かるという予知能力を持った男を主人公にした映画で、ニコラス・ケイジが演じている。事件に巻き込まれるという設定は珍しくないが、二分先の映像表現が見どころ。

 銀座方面に歩いて、和光の裏通りにある映画館に足を運ぶ。片桐はいりさんがバイトで、もぎりをしていた所だ。ドゥニ・デルクール監督の「譜めくりの女」。題名から音楽映画と思ったら、これがフランス映画らしい心理サスペンスもの。一種の復讐(ふくしゅう)劇で、残酷描写はないが、実に怖い。日が長くなって、銀座の街はまだ明るい。次の映画館に急いだ。

■大いなる陰謀


 ロバート・レッドフォード、メリル・ストリープ、トム・クルーズと、ハリウッドを代表するスターが共演。しかも扱っているテーマは対テロ戦争と米国社会と重い。にもかかわらず一時間三十二分にまとめている。監督も務めるレッドフォードの手腕がさえる。

 今もアフガンで対テロ戦争を展開している米国が、新たな軍事作戦に出る。これを異なる三つの場所から描いているのがこの映画の特徴。一つは、対テロ戦争との勝利にかける上院議員(クルーズ)のオフィス。ジャーナリスト(ストリープ)との掛け合いが見どころ。二つ目は戦場。軍事作戦の目的地に向かう途中、二人の兵士が敵陣の中に取り残される。苦学して大学に入りながら理想に燃えて志願した若者だった。三つ目は大学教授(レッドフォード)の研究室。可能性をひめながら怠惰な生活を送る学生との会話から、先の二人の志願兵が教授の教え子であることが分かっていく。

 9・11後、テロへの恐怖が世界を変えた。そうした社会に生きる現代人は何をすべきか。レッドフォードは政治家の資質、マスコミの役割、若者の在り方などを問い掛けながら、観客に「今のままでいいのか」と自問自答させておかない。熱いメッセージが伝わってくるレッドフォードこん身の力作だ。

■王妃の紋章

 チャン・イーモウ監督の「王妃の紋章」は、中国史への理解が深くなくても楽しめる出来栄えになっている。親子の愛憎劇という、分かりやすいテーマを扱っているからだろう。

 時代は一応、十世紀。唐の支配が終わって「五代十国」という群雄割拠のころの話。ある王家がたどる悲劇が描かれる。王と王妃、三人の息子が中心。そのうち長男が、今の王妃の前に王が愛した女性との間に生まれた子であることが分かり、これが新たな悲劇を生んでいく。

 だが、一番の悲劇の主役は王妃だろう。イーモウ作品への出演が八作目となるコン・リーが残酷な運命を受け入れる王妃を熱演。とりつかれたように菊の紋章を刺しゅうする王妃の真意はどこにあるのか。タイトルがなかなか意味深。戦国時代であり、王妃が政略結婚で嫁いできたことも物語の展開に重要な役割を果たす。暴君ながら孤高の王を堂々と演じているのはチョウ・ユンファ。彼を待ち受けている運命も悲しく厳しい。

 きらびやかな宮廷シーンが見どころでもある。極彩色の映像の中に、「初恋のきた道」と同じ監督とは思えないほど、イーモウ監督はどろどろとした人間の情念を浮かび上がらせる。戦闘シーンなどに大勢のエキストラを使った演出が目をみはる。中国映画の底力を感じた。

■クローバーフィールド

 全米では公開直前まで内容は伏せられた。その徹底ぶりが話題となったのがマット・リーブス監督作品「クローバーフィールド」である。夜のニューヨークに突然、何かが空から降って来て、現れたのが未知の生物というか巨大怪獣で街を破壊し始める。米国版ゴジラというよりも「エイリアン」を連想した。宇宙船内に侵入したエイリアンに次々犠牲になっていく乗組員の恐怖を、ニューヨークの街に置き換えてスケールを大きくしたような感じである。

 話題は全編、ハンディカメラのようなアングルで撮影しているところ。一人の若者が逃げまどいながら、ビデオカメラだけは手放さない。目の前で起きていることを撮影し続ける。

 観客は若者と一緒に行動し、ビデオカメラの視点のみで出来事を目撃していく。映画も一切説明しない。個人の視点でしか描かれないため、事件の全容が全くつかめない。そこが一番、不気味なところかもしれない。

 半面、この撮影方法はリアリティーを求めた結果かもしれないが、観客の間では賛否両論を呼ぶのでは。もう一つ、内容を秘密にして興行を盛り上げる手法にも疑問を感じる。イベント性だけが目立つからだ。ふたを開けてみれば、単純な内容のパニック映画にすぎなかった?では、ちょっとお粗末すぎる。

■死神の精度

 「SweetRain死神(しにがみ)の精度」は伊坂孝太郎の原作を映画化。一九八五年、二〇〇七年、二八年と、時代が違う三つのエピソードが描かれる。三話とも登場するのは金城武演じる千葉と名乗る死神と”同僚”の黒い犬だけだ。

 死神と言うと怖いイメージがあるが、金城の死神は喜怒哀楽の感情こそ乏しいものの、ミュージックを愛する”好青年”として登場する。役割も、七日後に死を予定されている人間を、そばで観察して実行(死)か見送り(生かす)かを判定する。審判的な存在だ。

 周囲の愛する人が死んでいき心を閉ざしがちなOL(小西真奈美)、正義感が強く不器用にしか生きられないヤクザ(光石研)、海沿いで美容院を開き、千葉を死神と見抜く初老の女性(富司純子)。この三人がそれぞれのエピソードの主役で、千葉が審判を下す担当となる。

 死は特別なものではない?とみる死神の視点から見つめたところがユニーク。千葉の目に映るのは、死を予告された人間の生き方である。映画は死を通して生の価値を問い、愛の在り方を描く。

 千葉は三人にどんな判定を下すか。さらに三話に共通した謎があることが浮かび上がる。監督はこれが初長編作という筧昌也、脚本も手掛けている。

■マイ・ブルーベリー・ナイツ

 見た後、スタッフの中に意外な名前を見つけることがある。ウォン・カーウァイ監督の「マイ・ブルーベリー・ナイツ」もそう。共同脚本にローレンス・ブロックとあった。米国を代表するミステリー作家と失恋した女性を主人公にした映画の組み合わせがとても不思議に思えたが、振り返ると妙に納得するところがあった。タイトルから連想するような甘さはなく、逆に画面からはドライでザラザラした印象を受けたからだ。監督の狙いもそこにあったのでは。

 純粋なラブ・ロマンスを作る気はなかったのだろう。愛の喪失感をハードボイルドタッチで描きたくてブロックに書かせたに違いない。映画は、ニューヨークから始まり、失恋の痛手からヒロインが旅に出て、再びニューヨークに戻ってくるまでの話。ニューヨークのカフェのエピソード、旅先でヒロインがアルバイトしながら出合う二つの男女のドラマが核となる。失った愛を求める男、失ってから愛の大きさに気づく女。さまざまな愛の形から浮かび上がるのは現代人の孤独だ。

 ヒロインに歌手のノラ・ジョーンズ。彼女の映画デビューを支えるように脇が豪華。ジュード・ロウ、ナタリー・ポートマン、レイチェル・ワイズ、デイヴィッド・ストラザーンで、彼らを見るだけでも価値がある。


■魔法にかけられて

 ディズニーリゾートに行くと魔法にかけられたような気持ちになる。おとぎの国の一員になった気分になるから不思議だ。だが、一歩外に出れば、大半の人間は「あれは夢。現実に返ろう」と常識人間に戻る。そんな考え方はおかしい?と言って、ケヴィン・リマ監督が作ったのが、夢の力が現実を変えていく「魔法にかけられて」だ。

 ディズニー提供だからディズニーの悪口を言うはずがない。でも、ちょうちん持ちの映画とも違う。ディズニー映画で育ったリマ監督が伝えようとしたのは、ディズニー精神そのものである。「夢を信じる力、夢見る力があればこそ現実も変えられる」という精神である。

 それを分かりやすい物語にした。魔女によって人間界に追放されたアニメのヒロインが、現実と折り合いをつけて暮らしている人間たちに大切なものは何かを教えていく。しかも「白雪姫」や「シンデレラ」のパロディーを盛り込みながらという遊び心にもあふれている。

 おとぎ話が持つ想像力は現実の人間社会に生かしてこそ役立つ。ニューヨークのセントラル・パークで繰り広げられる歌とダンスは、ディズニー精神がリゾートという境界線を越えて現実の人間社会を変えていく象徴的で楽しいシーンだ。魔法にかけられるのは観客自身である。

■バンテージ・ポイント

 
多くの人が集まった広場で米国大統領の狙撃というテロ事件が起きる。その場に居合わせた人たちは何を目撃したか。八人の異なる複数の視点から狙撃事件の真相に迫ったサスペンス映画である。

 脚本がユニーク。狙撃事件が起きた時刻からさかのぼって、八人それぞれの狙撃事件発生までの時間が、反復して描かれるからだ。八人は狙撃までどう行動し、何を見たか。パズルのように錯綜(さくそう)した事件も、八人すべての視点(バンテージ・ポイント)が重なり合ったとき初めて真相が見えてくる仕組みになっている。

 観客は、狙撃事件を八人それぞれの視点から八回、繰り返し目撃する。そのうちの一人、大統領を警護していたシークレット・サービスのトーマス・バーンズ(デニス・クエイド)とともに事件の真相を追いかけることになる。大統領役にウィリアム・ハート、狙撃の瞬間を映すテレビプロデューサーにシガーニー・ウィーバー(久しぶりの出演)、ビデオカメラが趣味のような観光客にフォレスト・ウィッテカーと、キャスティングも豪華だ。

 これだけの内容で上映時間が一時間三十分しかない。ピート・トラビス監督の、無駄を省いた、たたみかけるような演出が小気味よい。


ガチ☆ボーイ


 予告編に何かを感じて、「もしかしたら」という思いで見に行ったら、クライマックスに、あの「ロッキー」の時と同じような感動と興奮を覚えた。まさか学生プロレスで熱くなるとは思わなかった。

 北海道の大学の、人気のないプロレス研究会に、一人の学生・五十嵐(佐藤隆太)が入部する。なぜか五十嵐は一つ一つを手帳に細かくメモし、ポラロイド写真まで撮って出来事を記録していく。その行為の意味がドラマの核心につながっていく。

 一日しか記憶が持たない「高次脳機能障害」と学生プロレスという組み合わせが、ドラマに化学反応を起こし、青春映画の快作を生んだ。障害をテーマにしているが決して暗くならず、逆に笑いの精神で全速力で突っ走る。それは五十嵐の生き方そのものだ。寝て起きると前日のことをすべて忘れてしまう。だから一日一日を懸命に生きる、そんな自分は幸せ−と言い切る五十嵐は、ほかの誰よりも輝いて見える。五十嵐が部員や妹らに支えられて、ラストの宿敵との対決になだれ込んでいく。

 CG、合成は一切なしで、俳優たちはリング上で真剣勝負。その本気ぶりが見る者に伝わってくる。小泉徳宏監督はまだ二十七歳。これが二作目。笑えて泣けて、そして元気になれる熱い映画が誕生した。

■ライラの冒険 黄金の羅針盤

 また新しいファンタジー映画が誕生した。フィリップ・プルマンの原作を気に入ったというクリス・ワイツ監督による「ライラの冒険 黄金の羅針盤」である。これもまた三部作になるらしい。第一作は現実の世界と平行してある世界「パラレルワールド」が舞台で、そこに住む少女ライラ(ダコタ・ブルー・リチャーズ)が、黄金の羅針盤に導かれて冒険の旅に出る。最終的にはライラの世界と現実の世界が行き来することになるそうだが、それはまだ先の話。

 ”ダイモン”という人の魂が動物の姿になって現れる守護精霊のようなものがいたり、人と会話ができる白クマや美しい魔女が登場したりと、一見、子ども向けの単純なファンタジー映画に見えるが、描かれる世界観は決して一筋縄ではいかない。子どもたちを従順な存在にしようと暗躍する「教権」という組織が不気味で、ライラの前に立ちはだかる。権力による全体主義への恐怖が見え隠れする。

 第一作は、それぞれ登場人物たちの紹介と物語の道筋を示した壮大なプロローグといった感じで、一時間五十二分があっという間に過ぎる。六代目ジェームズ・ボンド役が記憶に新しいダニエル・クレイグ、サム・エリオットら脇役陣が充実。ニコール・キッドマンの悪女ぶりが一番の見どころかもしれない。

■エリザベス ゴールデン・エイジ


 シェカール・カプール監督が再びエリザベス女王を主人公にした映画を撮った。新作は、「エリザベス」(一九九八年)で描いた女王誕生(一五五八年即位)から約三十年後の話。一人の女性として苦悩する姿を浮かび上がらせると同時に、スコットランド女王メアリーを英国女王にしようとする一派の暗躍とエリザベス暗殺計画、クライマックスのスペイン無敵艦隊の襲来まで、たたみかけるような演出で描く。カトリック対プロテスタントという宗教戦争の面もあり日本人には分かりにくい点があるかもしれない。

 エリザベス役は前作に続きケイト・ブランシェット。幾多の危機に立ち向かい十六世紀の英国の黄金時代(ゴールデン・エイジ)を築いたエリザベス女王を堂々と演じる。

 エリザベス女王は人材の登用も巧みで、これが絶対王政を支えた。その一人が軍人ローリー(クライブ・オーウェン)。生涯独身を貫き「バージン・クイーン」とあがめられた女王にちなんで北米植民地を「バージニア」と名付けたエピソードは有名。側近のウォルシンガム(ジェフリー・ラッシュ)は、情報を重視しスパイ戦略の草分けとされる。当時の世界観、人間観を支配していたのが占星術で、占星術師ジョン・ディーの助言を頼るシーンが興味深い。

 演劇が華開いた時代でもあった。シェイクスピアが活躍したのがこのエリザベス朝時代で、その辺を面白く描いた映画にジョン・マッデン監督作品「恋におちたシェイクスピア」(九八年)がある。

■母べえ

 戦前の昭和を背景に、家族の大黒柱を警察に連行されて二人の娘を育てなければならなくなった母(かあ)べえ(吉永小百合)を中心にした物語だが、父(とう)べえ(坂東三津五郎)もまた陰の主役だった。

 二人の生き方を通じて山田洋次監督は「個」が「個」であることの大切さ、一つの価値観に染まることの怖さ、同時に当たり前の日常生活が一番尊いことを、エピソードを積み重ねながら淡々と描く。

 昭和十五年から十六年にかけての東京が舞台。太平洋戦争の足音が聞こえてきて、思想統制が強まる不穏な社会に覆われていく中で父べえが思想犯として捕まる。母べえたちの生活描写の中に留置場の父べえの姿が挿入されていく。自分の考えの非を認めれば釈放されるが、父べえは頑として拒み闘い続ける。

 深刻な物語になるところを、山田監督は笑いとユーモアで包み込む。父べえのかつての教え子でどこか超然としている山崎(浅野忠信)、根無し草的に生きる叔父の仙吉(笑福亭鶴瓶)の存在、父べえの妹久子(檀れい)の清楚(せいそ)な美しさが、救いのように描かれる。

 その人がその人であることの理由を奪う権利は誰にもない。映画は人間賛歌であり、戦争批判である。それは今にも通じるテーマだ。

■陰日向に咲く


 群像劇を作らせたら、ロバート・アルトマン監督ほどうまい監督もいなかった。俳優たちの極上のアンサンブルに酔い、いくつものエピソードが同時に進行しながら見事に収束していく演出の妙にうなった。

 テレビドラマの演出が主で、映画は「そのときは彼によろしく」(二〇〇七年)に続いて、「陰日向に咲く」が二作目となる平川雄一朗監督に、アルトマン作品のような出来栄えを期待したら酷というものだろうか。

 日の当たらない九人の人生が四つの物語になって描かれる。東京という大都会の片隅で、登場人物たちは何かを探し求めたり、何かから逃れたりしながら最後は自分と向き合うことで、生きているということ、独りぼっちではなく誰かに愛されているということの素晴らしさをかみしめていく。コメディータッチのほのぼの人情劇だ。

 一つ一つのエピソードがどこかで交錯したり、登場人物がつながったり、意外な関係が分かったりする。群像劇の醍醐味(だいごみ)である。

 登場人物たちがそれぞれ目撃する、強風に飛ばされた黄色い傘を使った演出が粋で心憎い。ただテレビドラマ的な作りが、時々顔を出すのが気になった。二役を演じる宮崎あおいが印象に残る。原作は劇団ひとりのデビュー作で話題になった。

■シルク

 初めに断っておくが、フランソワ・ジラール監督作品「シルク」に対する見方はかなり独断と偏見に満ちている。間違った解釈をしているかもしれないし、自分の都合のいいように見ているだけかもしれない。と言うのも、世にも不思議な巡り合いのドラマで、幻想ロマンにしか見えなかったからだ。

 フランスの村から日本に蚕を求めて、何カ月もかけてやって来た青年エルヴェ(マイケル・ピット)が、幕末の日本の村で出会った少女(芦名星)は現実に存在していたのか、それとも異国の地で孤独の果てに見た幻影なのか。こうしてエルヴェはこの後、明治維新へと時代が移り変わる中で、謎の少女に引かれるように命の危険も顧みずに二度もこの村を訪れる。故郷に美しい妻エレーヌ(キーラ・ナイトレイ)を残してである。

 世界の果ての地で出会った異国の少女に魅せられた男の物語と単純に見ることもできるが、では一体、エルヴェのもとに届いた一通の手紙は何を暗示しているのか。ミステリー色、神秘性さえたたえた幻想的な愛の物語へと昇華していく−と勝手に解釈させてもらった。

 鍵を握る日本人女性マダム・ブランシュに中谷美紀、ほかに役所広司、國村隼らが脇を固める。原作はアレッサンドロ・バリッコのベストセラー。

■スウィニー・トッド

 
ジョニー・デップが歌う。これだけでも一見の価値がある。「パイレーツ・オブ・カリビアン」シリーズの次に選んだのはブロードウェイ・ミュージカルの異色作品「スウィニー・トッド」だった。監督はティム・バートン。「シザーハンズ」「エド・ウッド」「スリーピー・ホロウ」「チャーリーとチョコレート工場」などを手掛けてきたコンビで、息はぴったり。

 その名コンビが初の本格派ミュージカルに挑戦。お手並み拝見といった感じで楽しく観賞した。が、副題に「フリート街の悪魔の理髪師」とあるように、かなりショッキングな映像と内容になっている。殺人劇であり人肉食映画であるからだ。”R15”と、「十五歳以下は入場禁止」という制限までついた。

 十九世紀のロンドンを舞台にしたデップ演じるトッドの復讐(ふくしゅう)劇は、ギリシャ悲劇を思わせるような運命の残酷、皮肉さと純粋な愛の物語が表裏一体となっていて、見る者の心をつかんではなさい。サスペンスが幾重にもたたみかけられるクライマックスは、ヒッチコック作品を見ているような緊迫感でいっぱいだ。

 人間の恐るべき暗黒面をえぐり出しながらも、悲しさに満ちているのは、社会のはみ出し者に愛情を注ぐバートンの優しいまなざしがあるからだろうか。


■銀色のシーズン


 「海猿」シリーズで知られる羽住英一郎監督が、初のオリジナルストーリーで完成させたのが”雪猿”を描いた「銀色のシーズン」。意外にも主人公たちの生き方をしっかり見つめた青春映画に仕上がっている。

 モーグルの町としてにぎわいを取り戻そうと頑張る桃山町の人々が個性的。雪上結婚式を売り物にしたアイデアが面白い。企画に応募して東京から来るのが綾瀬七海(田中麗奈)。花婿より先に来たのはスキーの特訓が目的という。が、何か訳がありそうな感じで物語は進む。

 そう、この映画は単純なようでいて構成が少し凝っている。キャラクターたち一人一人の人生が一本の物語を紡いでいく。重い映画ではない。雪山の何でも屋を自称する三人の雪猿たちがメーンだからで、その一人、城山銀(瑛太)が七海のスキーの先生を引き受ける。実は銀と町の人々の関係が物語の鍵を握っていて、観客は七海を介して銀の過去の栄光と挫折を知る。

 銀が滑り方で七海に何度も注意していた同じ助言を逆に七海が口にするシーンが印象的。「下ばかり向いていては駄目なんだ。視線を遠くに向けないと」

 人生もまたしかり。自分に向けられた言葉であることに気づいた銀の挑戦が見どころ。「ロッキー」のような感動が待っていると言えば、大げさか。

■AVP2 エイリアンズVSプレデター

 もし宇宙一凶暴なエイリアンと宇宙の戦士プレデターが戦ったなら。そんな奇抜な着想から生まれた一作目「エイリアンVSプレデター」(二〇〇四年)が大ヒット。ザ・ブラザーズ・ストラウス監督の「AVP2エイリアンズVSプレデター」はその続編である。

 戦闘能力も知能も、より進化した新種のエイリアンが誕生すれば、プレデター側も「ザ・クリーナー」という最強の戦士が登場する。彼らの戦場の舞台となるのが米国コロラド州に実在する小さな町ガニソン。新種のエイリアンに支配されたプレデターの宇宙船が不時着したことから平和な町は突如、惨劇の場と変わる。エイリアン対プレデター対町民プラス州兵の戦いが入り乱れて繰り広げられる。

 注目したい名前がプロデューサーのウォルター・ヒル。「エイリアン」シリーズに携わってきた人であり、自ら監督した作品には「48時間」「ストリート・オブ・ファイヤー」といった切れ味の鋭いアクション映画の傑作がある。そのヒルの特徴が感じられる作りとなっている。歯切れとテンポが良く、上映時間も一時間三十四分と理想的。娯楽性は「エイリアン2」に近い。シガニー・ウィーバーを連想させる強いヒロインも登場。何よりエイリアンズと複数形は「エイリアン2」と同じだ。

■茶々 天涯の貴妃

 授業で学んできた日本史は、乱暴に言えば勝者の歴史、時の権力者の歴史である。歴史の表舞台に立ってきた主役は、ほとんどいつも男性たちだった。

 ところが、宝塚出身の和央ようかが映画初デビューにして初の主演を務めた橋本一監督作「茶々 天涯の貴妃(おんな)」は、女性の視点から見た戦国時代が描かれていて新鮮だ。

 登場するのは織田信長(松方弘樹)豊臣秀吉(渡部篤郎)徳川家康(中村獅童)と、天下統一を目指して争った名武将たちである。誰もが知っている歴史が展開する。だが、あくまで視点は和央が演じる茶々にある。秀吉に嫁ぎ、後の淀君になる女性である。戦国時代にあって翻弄(ほんろう)されながらも自分の生き方を貫き、女性としての役割を果たそうとしたヒロインの姿はりんとして美しい。宝塚時代に男役のトップスターだった和央のキャラクターが最大限に生かされている。

 茶々の母お市(原田美枝子)二人の妹(寺島しのぶ、富田靖子)らもドラマ上、重要な役どころで登場。茶々を核にそれぞれの女性たちの生き方を通して見えてくるのは、歴史は男性によってのみつくられていたわけではないということである。裏で歴史を動かしていたのは彼女らの愛の強さかもしれない。原作は井上靖の「淀どの日記」。

■アイ・アム・レジェンド

 三度目の映画化。前に見たのは二度目の映画化のとき。「オメガマン」(一九七一年)で、チャールトン・ヘストンが地球最後の人間として登場、細菌戦争後の人類の運命が描かれた。気に入って何度か劇場で見た。

 原作があるが、リチャード・マシスンが発表したのは一九五四年というから驚く。フランシス・ローレンス監督、ウィル・スミス主役で作られた、今回の三作目から半世紀以上も前なのに、描かれている世界観は全く魅力を失っていない。

 人が消えたニューヨークで愛犬を話し相手に暮らすネビルをスミスが演じている。主人公が白人から黒人に変わったのは時代の流れか。設定もウイルスによる人類の危機と現代的に解釈されている。一人生き残ったネビルの孤独な戦いが描かれる。

 マシスンが創造したこの世界の恐ろしい点は、昼はネビルの世界だが、日が沈んだ後の夜の世界を支配するのが別の種族であるところ。今回はウイルスの後遺症で凶暴になった人間たちがゾンビのようになって襲いかかってくる。ヘストン版はアクション重視だったが、スミス版はホラー色が強い。が、家族を失った悲しみ、募る孤独感と、主人公の内面が強調されているあたりは原作に近い。ゴーストタウンと化したニューヨークが見どころである。

■ベオウルフ 呪われし勇者

 ファンタジー冒険もののブームが衰えそうもない。ロバート・ゼメキス監督作品「ベオウルフ」もこのブームがあって生まれた。しかし内容はハードだ。初めて大人向けに作られたファンタジー冒険ものと言える。

 話題は最新の映像技術と俳優の合体である。「パフォーマンス・キャプチャー(PC)」と言って、役者に演技させて、コンピューターで理想の姿を作りだすという。例えばベオウルフ役のレイ・ウィンストンの身長は一七八センチだが、PCによって一九八センチの筋骨隆々の勇者に変えられている。それが違和感なく自然に見えるからすごい。

 八世紀ごろに書かれた、現存する最古の英語叙事詩を、今の技術でよみがえらせた。スウェーデンのベオウルフが、怪物の出現に悩まされているデンマークの王とその国を救うという英雄物語である。ベオウルフに待ち受けている運命とその代償の物語でもある。

 興味を引いたのが舞台となる北欧とキリスト教の関係。キリスト教が欧州に入るのは五、六世紀ごろ。ベオウルフが人間から神中心の世界に変わりつつあることを話すシーンが印象的。映画は人間が主役でいられたころの勇者の物語なのである。アンソニー・ホプキンス、アンジェリーナ・ジョリー、ジョン・マルコビッチと脇が豪華。

■椿三十郎

 森田芳光監督の新作「椿三十郎」を映画館で見てから、ビデオで黒沢明監督の「椿三十郎」(一九六二年)を見直した。同じシナリオを使っているが、上映時間は森田作品が百十九分に対して黒沢作品が九十六分と、新作の方が二十三分も長い。その違いが興味深かった。

 黒沢作品はハードボイルドタッチ、できるだけ簡潔な描写でテンポ良く展開していく。森田作品は長文形式、行間からにじみ出る味わいを楽しもうとしている。その分、長くなった。

 ともにユーモラスなタッチがこの娯楽時代劇をユニークにしている点では共通しているが、森田作品の方がコメディー色が強い。それはヒーローの描き方の違いからも明らかだ。

 黒沢作品の”三船(敏郎)三十郎”は豪傑だ。藩の重職たちの悪巧みを暴こうとして血気にはやる若い武士たちを統率する鬼軍曹といった感じで、近づきがたいすごみがある。これに対し森田作品の”織田(裕二)三十郎”は協調性を重んじる兄貴的存在で、親しみさえわく。時代の求めるヒーロー像が無意識のうちに反映されて、二人の三十郎を生んだと言える。

 見どころはやはりラストの三十郎と室戸半兵衛(豊川悦司)の対決。押入に閉じ込められた敵方の侍が今回もおかしい。佐々木蔵之介が好演している。

■ALWAYS 続・三丁目の夕日

 映画には、見る人の生き方を変える力がある。映画のもつ力は夢、希望にもつながり、厳しい現実を乗り越える勇気さえも時には与えてくれる。

 「続・三丁目の夕日」は、その映画のもつ力をうたいあげた映画である。昭和の時代がすべて善で、明るく輝いて見えるような作り方には「そんなに昭和って良かったけ」と違和感を覚えるところもあるが、映画のもつ力を信じてドラマが収束していくところは鳥肌が立った。

 クライマックス。現実にはあり得ないと思いながらも、「映画だからこそ、ラストはそうなってほしい」という観客の願いが通じる。「現実はそんなに甘くない」という登場人物の一人の批判的な声が聞こえてきそうだが、あえて山崎貴監督はじめとする作り手側は観客が期待する結末にドラマを導くことで、観客に幸福感をもたらそうとする。映画館を後にする観客の心は温まり、「人生って、捨てたものではない」という生きる力がわいてくる。これが映画のもつ力であり、続編はその素晴らしい力を見直そうとして作られたような気がしてならない。

 「現実よりも、お金よりも大切なものがある」。続編のテーマと重なってくる。その意味では、なかなか重層的な構図の娯楽作品でもある。オープニングシーンが最大の見せ場かも。


■モーテル

 際物のホラーかと、あまり期待しなかったが、「モーテル」は意外な拾いものだった。「もしかしたら」という予感はあった。ケイト・ベッキンセール、ルーク・ウィルソンとスターが夫婦役で共演しているからで、彼らが出ているということは、ある程度、作品の質が保証されていることにつながるからだ。

 どぎついホラー映画なんかではなく最初はじわじわと、あとは一気に怖がらせる、ブラックユーモアさえ漂うスリラーの佳作だった。人里離れたモーテルを舞台に、極限状況下に置かれた夫婦が体験する一夜の恐怖を描いている。カメラは最初だけ夜の道をドライブする夫婦を映し出すが、あとはほとんどモーテル内から出ない。一種の密室劇とみることができる。そこで夫婦を襲うのが不条理な殺人事件である。二人は無事にモーテルを脱走できるのか。息子を事故で失い、冷めた関係になっているといういきさつも効いてくる。登場人物がしっかり描かれているからこそ恐怖感も増す。

 脚本がしっかりしていれば、低予算でも、上映時間が九十分に満たなくても、面白い映画は作れるという見本のような作品だ。ニムロッド・アーントル監督はヒチコックを意識したという。そう言えばヒチコック作品にモーテルを題材にした「サイコ」という傑作がある。


■クローズZERO

 映画から放たれるエネルギーに圧倒されることがある。それが名作とか傑作とは限らない。作り手側の熱い思いが大画面からほとばしる。少しぐらい物語が破たんしていようともかまわない。心を揺さぶられるような衝撃が全身を貫く。そんな出合いがたまにある。

 不良高校生たちの激闘の日々を描いた「クローズZERO」に感じたのは、頂点を目指しケンカに明け暮れる彼らのギラギラとしたエネルギーだった。社会での成功を実現するために準備期間としての今があるのではなく、一瞬一瞬を生きるために今がある。刹那(せつな)主義とは違う。全力を、全霊を傾けて今を生きる。信じられるのは自分の腕力と仲間だけ。「不良度」百パーセントの映画だが、まぎれもなく青春映画だけが持つ特有の輝きがあった。何かを成し遂げようとする純粋なエネルギーが放射されていた。

 泣ける映画が受けて、ノスタルジーに満ちた映画がヒットする。そこには毒気も反骨精神もない。表層的な平和な日本しか見えてこない。そんな風潮に三池崇史監督は怒り、アナーキー精神に満ちた反社会的な不良映画で風穴を開けようとしたのだろうか。不良映画はヒットが難しいと言われてきたのに反して、この映画は小栗旬人気もあってか興行的にも成功している。


■ブレイブワン

 愛する者を暴漢たちに殺された主人公が、許せない犯罪者たちを自らの手で裁いていく。殺人者か正義の使者か。マイケル・ウィナー監督が一九七四年にチャールズ・ブロンソン主演で作った「狼よさらば」から三十三年。今再び同じテーマを扱った映画「ブレイブワン」がニール・ジョーダン監督、ジョディ・フォスター主演で作られた。

 舞台はどちらもニューヨークだが、重きは「ブレイブワン」の方がある。もう一つの主役だからだ。フォスター演じるエリカ・ベインが、ニューヨークという街そのものを題材にしたラジオ番組の人気パーソナリティーという点が象徴的。愛してきた街が悲劇的な事件を境に違って見える。人間に対し不信感、警戒感を持つようになる。ベインの心の変化に9・11前と後の米国を重ねてしまうのは強引だろうか。いや9・11が起きたからこそ、女性版「狼よさらば」が作られたようにも思える。

 違いは悲劇後の行動。確かにベインは「正義の鉄つい」を下すために反撃に出るが、自分の行為を誰も止めてくれないことに苦しむ。知り合った黒人刑事にサインさえ送るようになる。「狼よさらば」も当時、社会的論議を呼んだ。が、時代の空気はかなり違う。自らの行動を問うことで、大国・米国の在り方を問おうとしたのか。フォスターは製作総指揮も兼ねている。

■ミシェル・ファイファー


 ミシェル・ファイファーが久しぶりにスクリーンに帰ってきた。彼女の出演作品「ヘアスプレー」と「スターダスト」の二本が同時に公開されている。

 「ヘアスプレー」は心がウキウキしてくる楽しいミュージカル。歌とダンスが好きな女子高校生のお母さん役がジョン・トラボルタという奇抜な映画でもある。一九七〇年代に「サタデー・ナイト・フィーバー」「グリース」と二本のミュージカルでスターになったトラボルタが「ヘアスプレー」で満を持して踊り出すシーンは感動的だ。

 ファイファーの役は自分の娘を売り出すために地位と権力を利用する、いじわるな嫌な役。ミュージカルなので歌うシーンもある。「恋のゆくえ」(八九年)以来の美声を聞かせる。

 「スターダスト」でも、主人公たちを追いつめる悪い魔女にふんしている。最近ブームの冒険ファンタジーもので、醜く年老いた魔女が若返ると、それがファイファーで、四十九歳とは思えない美しさに目をみはる。

 彼女が演じるキャラクターは悪役ではないが、どちらも嫌われ役である。あえて挑戦したのだろうか。確かに彼女が演じると、そこに知性と品位が宿り、キャラクターの魅力が増す。製作者の狙いもそこにあるに違いない。新しいファイファーがこれから見られるかもしれない。

■インベージョン

 外見は全く同じでも家族や友人がある日突然、人間的な感情を一切失った別の生命体になっていたら…。

 こんな着想から生まれたのが、ジャック・フィニイのSF小説「ボディ・スナッチャー」だ。一九五五年の作品だが、着想は古びることなく、今回「インベージョン」というタイトルで三度目の映画化となった。

 未知の生命体によって侵略されるのは地球ではなく人間自身という点が、この作品の怖いところだが、今回、タイトルもずばり「侵略」。原作は米国の小さな町の出来事として描き、不気味さを醸し出ている。それに対して、映画はアカデミー主演女優のニコール・キッドマン、新生007を演じて好評だったダニエル・クレイグを迎えたためか、地球的規模のスケールの大きい物語になっている。

 しかも、キッドマンには男の子がいるという原作にはない設定で、母が子を守るために戦うというほうに物語の重きを置いている。戦う強いヒロイン像は「エイリアン」のシガニー・ウィーバーからキッドマンに受け継がれた格好だ。

 監督はオリバー・ヒルシュビーゲル。「ヒトラー 最後の12日間」で注目を浴びた人で、感情を失いつつある人間世界をリアルに描いている。心理的な恐怖で見せるSFサスペンスだ。

■パーフェクト・ストレンジャー

 ハル・ベリーとブルース・ウィリスという人気スターが初共演した本格ミステリー映画である。これだけで興味が膨らんだ。タイトルが鍵を握っている。意味は「完全なる別人」。

 こうしたミステリー映画の場合、結末を受け入れられるかどうかで印象がだいぶ変わってくる。この映画も、いろいろと伏線を張り巡らして、意外な結末と真相を用意している。

 物語はこうだ。舞台はニューヨーク。親友の無残な死に方にウィリスが関係しているとにらんだベリーが、男友達の協力を得てウィリスに近づく。ウィリスが親友を殺したのか、それとも真犯人は別にいるのか。

 ユニークなのは、登場人物それぞれが抱える「秘密」という視点。例えば、ベリーの少女時代に起きた出来事が何度か挿入される。ショッキングな描写で驚かすのではなく、人間自身が一番ミステリアスなんだという心理的な怖さを描こうとした作品である。ジェームズ・フォーリー監督はヒネリのある映画が好きなようだ。

 それにしても現代のミステリーは、パソコンやメールが重要な要素を占めていて、この映画ではもう一つの主役といった感じだ。でも、やはり一番の見どころはオスカー女優ベリーの熱演か。欲を言えば、ウィリスの頑張りをもう少し見たかった。

■ミス・ポター

 ピーター・ラビットの絵本は知っているが、作者のビアトリクス・ポターについてはどれほど知っていただろうか。

 女性は結婚が一番の幸せ、仕事はもってのほかと考えられていた二十世紀初頭の保守的な英国社会にあって、ポターが選んだのは結婚ではなく、職業を持って自立した生活だった。動物の絵を描くことが好きで、物語をつくることに夢中になっていた少女時代の夢を実現させた一人の女性の生き方を、共感をもって描く。

 生き方に不器用だけれど自我を曲げず懸命に生きるヒロインをレニ・ゼルウィガーが熱演。今回はプロデューサーの一人でもある。ポターの独立独歩の生き方に共鳴したのだろう。

 それにポターは英国の湖水地方の自然を保護する活動にも大きな役割を果たした。映画の後半で描かれるのは社会活動にも積極的にかかわっていった女性の姿である。自由な精神の持ち主で進歩的な女性でもあった。その人間としての在り方にゼルウィガーは尊敬の念さえ抱いたのではなかろうか。

 ポターの作家デビューを助ける出版業者ノーマンにユアン・マクレガー、ノーマンの姉ミリーにエミリー・ワトソン。監督は「ベイブ」のクリス・ヌーナン。風が吹き抜ける湖水地方の田園風景が見どころでもある。

■HERO

 六年前のテレビシリーズも、昨年のスペシャル版も見ていないが、それでも劇場版「HERO」はそれなりに楽しめる。

 東京地検城西支部の検事・久利生(木村拓哉)が扱うことになる殺人事件が、大物代議士が絡む贈収賄事件に結び付いていく。中卒で、スーツを着ない型破りの検事という久利生のキャラクターが一番の見どころ。情熱的な行動力に、事務官の雨宮(松たか子)も、支部のほかのメンバーも巻き込まれていく。群像劇の面白さで見せるあたり「踊る大捜査線」と似ている。どちらもフジテレビである。

 映画なりにスケールアップ。事件を追って韓国に飛ぶ。イ・ビョンホンがおいしい役で久利生の捜査を助ける。主人公と渡り合う相手が手ごわいほど面白くなるのも定石。松本幸四郎が弁護士役で立ちはだかる。

 互いが協力し合い、互いのアリバイを立証する。ミステリー小説で使われる手法だが、久利生がこれをどう崩していくかが興味深い。トリックや意外な真犯人よりも鈴木雅之監督は事件の背後に潜む人間の悲しみ、愛の強さ、その人間の生きた証などを、久利生の法廷での熱弁を通じて浮き彫りにしていく。ジョルジュ・シムノンのメグレ警視ものと重なるものがある。鈴木監督、もしかしたらメグレをひそかに意識したのでは。

■Life 天国で君に逢えたら

 二〇〇五年二月、がんのため三十八歳で亡くなったプロのウインドサーファー飯島夏樹(大沢たかお)を主人公にした、実話を基にした映画である。こちらの勉強不足で、映画化されるまで日本にこんなすばらしいサーファーがいたことを知らなかった。日本人で唯一、八年間もワールドカップに出場して、入賞もしたことのある世界的なプロのサーファーだった。

 映画は闘病生活の中で彼が書いた「天国で君に逢えたら」と「ガンに生かされて」を基に作られた。選手として芽が出るまでの苦労や貧乏暮らし、プロとして活躍した日々、突然襲った病魔との闘いがつづられる。

 が、この映画は飯島夏樹を主役にしながらも、描かれるのは彼を取り巻く人々との交流である。結婚する前から常に一人の女性・寛子(伊東美咲)の存在があった。先輩夫婦(哀川翔、真矢みき)の励ましがあった。そして家族ができてからは四人の子どもたちが希望となった。

 自分一人の力で栄光を勝ち取ったわけでも、生きてきたわけでもない。大病して初めて知ったのは、自分が生かされてきたこと、多くの人に支えられてきたことだった。一つ一つのエピソードを新城毅彦監督が丁寧に描写していく。主題歌「風の詩を聴かせて」を桑田佳祐が担当しているのも話題。

■ラッシュアワー3


 ジャッキー・チェンと真田広之が対決したら、どちらが強いか。アクション映画ファンにはこたえられない共演が実現したのがブレット・ラトナー監督作品「ラッシュアワー3」で、しかもパリのエッフェル塔で死闘を繰り広げる。鍛え抜いた肉体と優れた身体能力によるアクションは、コンピューター・グラフィック(CG)がいくら進歩してもかなわない迫力がある。

 驚いたのがジャッキーの年齢。今年五十三歳。アクションとコメディーを融合して独自のエンターテインメントを追求してきた。今回も妥協することなく魅せてくれる。真田もすごい。昔からのコンビのように”あうん”の呼吸で、ジャッキーと痛快なアクションを繰り広げる。

 真田ばかりではない。この映画、キャスティングでファンを驚かせる。工藤夕貴は序の口。パリを舞台にしていることもあって、イヴァン・アタル(シャルロット・ゲンズブールの夫である)が出演。ロマン・ポランスキー監督まで警視役を楽しんでいる。一番の驚きは大物俳優マックス・フォン・シドー。貫録十分の演技で、重要な役どころを演じる。

 中国マフィアの存在を追って活躍するジャッキーとクリス・タッカーの刑事コンビ。体調管理を怠ったのか、太り気味のタッカーが少々気になったが。

■怪談

 意外にも本格的な怪談ものだった。黒木瞳、尾上菊之助の共演ということで、怖さよりも恋愛面を強調した映画と思い込んでいたのが間違い。けっこうどっきりさせられたり、背筋がスーと寒くなったりするシーンがあった。

 「リング」などの監督として知られ、ハリウッドにも進出したモダンホラー映画の旗手・中田秀夫が時代劇の怪談ものに挑戦。題材に選んだのが三遊亭円朝の名作「真景累ケ淵」だ。

 女・豊志賀(黒木)の情念が怨霊(おんりょう)と化して、愛した男・新吉(尾上)に付きまとう。親の代から続く因縁が始まりで、この導入部を怪談の講談でおなじみの一龍斎貞水が高座に座って紹介する。粋な演出で観客を引き込む。

 怖いのは、怨霊となった豊志賀が新吉の新しい恋を許そうとしない点。結末はある程度、予想がつく。一つの究極的な愛の姿に救いのようなものが感じられる。井上真央、麻生久美子、木村多江、瀬戸朝香ら個性的な女優たちの共演が見どころ。特に豊志賀の妹を演じる木村が、物語の節目、節目に登場する。

 モダンホラーのブームが続く中、怪談ものを現代的な感覚でよみがえらせようとした中田監督の試みは評価していい。これをきっかけに第二、第三の怪談ものが生まれるかもしれない。


■夕凪の街桜の国/


 広島の原爆を扱った映画くらいの予備知識しかなかったので、「夕凪の街」とタイトルが半分しか出ないうちに物語が始まり出して、ちょっとあわてた。

 映画は二つの章から成り立っていた。「夕凪の街」と「桜の国」で、前半の「夕凪の街」が終わったところで、「桜の国」というもう一つのタイトルが浮かび上がった。

 「夕凪の街」は広島への原爆投下から十三年後の話。「桜の国」は現在の話。全く別な話かと言うとそうではない。時代を隔てた二つの話をつなぐのが、被爆者とその家族だからである。

 それぞれにヒロインが登場する。広島が舞台の「夕凪の街」には平野皆実(麻生久美子)。生き延びたことに罪悪感を抱きながら生きている。同僚に愛を打ち明けられたとき自分だけ幸せになっていいのかと自問自答する。「桜の国」は皆実の弟・旭(堺正章)の娘・七波(田中麗奈)の物語。父の不可解な行動を追って友達の東子(中越典子)と広島を訪れる。自分の家族のルーツを見つめ直していく。二人のヒロインが伯母とめいの関係であることが分かる。

 声高に原爆を批判したり、反核を唱えたりしていない。生き残った人の人生を、家族の運命を変えたもの。佐々部清監督は、それを物言えぬ人たちの苦しみ、悲しみとしてとらえる。

■オーシャンズ13/

 六年前に「オーシャンズ11」がつくられたとき、こんなぜいたくなスター陣による映画は二度と見られないだろうなと思ったもんだ。それが、まさかシリーズ化されるとは。三作目「オーシャンズ13」にはスティーブン・ソダーバーグ監督の下に、ジョージ・クルーニー、ブラッド・ピット、マット・ディモンら人気スターがまたまた結集。

 前作「オーシャンズ12」(二〇〇四年)の評価が芳しくなかっただけに、名誉挽回とばかり意気込みが伝わってくる出来。

 今回はジュリア・ロバーツこそ欠けているが、代わりに敵として登場するのがアル・パチーノとエレン・バーキン。パチーノによって仲間をハメられたクルーニーたちの復しゅう劇。と言っても血を見たり暴力が繰り広げられたりする訳ではない。クールに知的にエレガントにチームワークによって作戦は進められる。キャラクターの個性で見せる。ここにシリーズ最大の魅力がある。前作はそこにあぐらをかいてしまって失敗した。

 前作まで敵だったアンディ・ガルシアの絡みも注目。パチーノとバーキンと言えば、十八年前に共演した「シー・オブ・ラブ」が懐かしい。パチーノとガルシアは「ゴッドファーザーPART3.」で叔父とおいの関係ではなかったか。キャスティングにも遊び心があふれている。

■トランスフォーマー

 「映像革命」とは製作総指揮に当たったスティーブン・スピルバーグの言葉である。なるほど機械生命体=巨大ロボットのトランスフォーム(変身)ぶりには目をみはった。CG(コンピューター・グラフィック)もここまで進化したかと驚いた。

 でも、この映画の見どころはCGだけに頼っていない点にある。実写との融合にこそ真の魅力がある。実写はマイケル・ベイ監督のこだわりだ。ロボットのアクションと実写を組み合わせることによって、今までにない重厚感あふれる映像を生みだした。質感のなさがCGの弱点だったが、この映画は見事に克服。クライマックスのロサンゼルスの市街戦が見もの。ロボットはCGでも、吹き飛ばされる車や爆発は本物。迫力あるバトルを展開してみせる。スピルバーグの「映像革命」という言葉も大げさに聞こえない。

 物語は単純。善と悪のロボット集団が地球を舞台に戦う。人類の未来を握った戦いでもあり、人間たちも巻き込まれる。

 少年と善のロボットの友情物語でもあり、スピルバーグの監督作品「E・T」と似ている。それより変身ロボットの話は日本の専売特許だったはず。と思ったら、日本発のおもちゃの輸出がきっかけで米国内でも人気を呼んで、今回の映画化となったらしい。納得した。

■マルチェロ・マストロヤンニ  甘い追憶

 「マルチェロ・マストロヤンニ 甘い追憶」は、懐かしさと楽しさに満ちたドキュメンタリーだ。ドキュメンタリーにありがちな堅苦しさはない。十一年前に七十二歳で亡くなったイタリア映画界を代表するマストロヤンニの俳優人生を、マリオ・カナーレとアンナローザ・モッリ監督が当時のフィルムや関係者、家族の証言などでつづる。

 「彼は自分の人生を夢だと思っていたんだ」

 「極めて軽やかに真実を掘り下げてゆく役者だ」

 ”ラテンの恋人”というイメージの向こうに、さまざまな証言を通して多面的なマストロヤンニ像が浮かび上がっていく。共通しているのは誰にも愛されたということだ。映画を愛し、人生を愛した男の魅力が再び観客を魅了する。

 監督のフェデリコ・フェリーニやルキノ・ヴィスコンテ、共演した俳優のソフィア・ローレンやアヌーク・エーメ、クラウディア・カルディナーレ、フィリップ・ノワレらが喜んで彼のことを話す表情がまたいい。

 彼自身の言葉も興味深い。

 「充実させるべきなのは内面のはずなのに、それが難しい」

 画面の隅々から彼の人間性があふれている。唯一残念なのは公私共にパートナーだったカトリーヌ・ドヌーヴの証言がないことだ。断ったのだろうか。

■西遊記

 興行的に魅力なのか、テレビの人気作品の映画化が続いている。「西遊記」は、テレビシリーズは見ていなくても、三蔵法師が孫悟空、猪八戒、沙悟浄を連れて旅する話はあまりにも有名。香取慎吾が悟空にふんしたこの映画に溶け込むのにも、さほど時間はかからなかった。

 ただ初めて見る者にとっては三蔵法師が女性だったという解釈は新鮮というか驚いた。演じているのは「踊る大捜査線」でもおなじみの深津絵里。りんとしたたたずまいが意外と似合っている。

 本格的な中国ロケを生かした映像はスケール感がある。残念なのは演出がテレビの域を出ていないところがある点。監督がテレビシリーズをこなしてきた沢田鎌作という人で、これが劇場映画デビューという。

 レギュラー陣よりキャラクターとして魅力的だったのが最強の敵となる金角(鹿賀丈史)と銀角(岸谷五朗)。外伝のような別な形で彼らが活躍する映画を見てみたい。小国の姫を演じる多部未華子も今後の活躍が楽しみな若手女優だ。

 公開中の「ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団」もそうだったが、強力な敵を前にして主人公の力となるのが”敵にないもの”という点が興味を引いた。裏を返せば、その力は人間への愛、信頼に基づいている。

■ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団

 シリーズ五作目は、大人への第一歩を踏み出すハリー(ダニエル・ラドクリフ)の心の葛藤(かっとう)をメーンに、愛と友情が何よりも強いことを打ち出している。

 見どころは多い。一番はハリーのファースト・キスシーンか。闇の帝王ヴォルデモート(レイフ・ファインズ)との対決、シリウス(ゲイリー・オールドマン)たちによる騎士団結成と興味が尽きない。ハリーの父に関して新たな事実が明るみになったり、主要人物の一人に悲運が襲ったりと、五作目は衝撃的な内容にもなっている。

 個人的に関心をもったのは魔法省の存在。情報操作したり、ハリーたちを秩序と統制で支配しようとする。管理社会の恐怖を描いた小説にジョージ・オーウェルの「一九八四年」がある。シリーズの原作者J・K・ローリングは同じ英国人として、その辺を意識したのだろうか。

 シリーズがマンネリ化しないのは監督に新しい人を起用するようにしているからだろう。今回はテレビ出身のデイビッド・イェーツが演出。毎回新たに加わるスターもお楽しみ。イメルダ・スタウントン、ヘレナ・ボナム=カーターが活躍する。さらに個性的な変わり者の女の子が登場、ハリーの心強い味方になっていく。この二人の関係がとても新鮮だ。

■ダイ・ハード4・0

 今年はシリーズものが続いている。ブルース・ウィリスの当たり役となった「ダイ・ハード」も四作目が公開された。

 三作目から実に十二年ぶりになる。ジョン・マクレーン刑事役のウィリスも五十二歳。”戦う普通のおっさん”がますます似合ってきた。

 今回の敵はサイバー・テロ。デジタルに制御された都市機能をまひさせる。テクノロジーに精通した敵に対して、マクレーンは知力と体力で挑む。敵のボスのセリフがふるっている。

 「お前はデジタル時代のハト時計だ」

 敵のボスは米国政府に屈折した恨みを持つ人間で、アメリカ独立記念日の七月四日を狙ってテロを起こす。9・11を背景にしているのも今のハリウッド映画の特徴だ。

 その国家的危機を救うために戦わざるを得なくなるのが、アナログ型刑事という構図が面白い。今回も助っ人が登場する。ハッカーの若者だ。水と油のような二人が行動を共にするうちに”戦友”のような友情が芽生えていく。ユーモア精神も健在で、この辺の人間味がこのシリーズのいいところ。娘とのぎくしゃくした親子関係も伏線になっている。監督はレン・ワイズマン。「アンダーワールド」でウィリスに才能を認められて、四作目を任せられた。

■舞妓Haaaan!!!

 キャラクターから物語の展開まで、すべてにおいて破天荒なコメディー映画である。

 京都を舞台に舞妓(まいこ)はんとの野球拳を夢見る男の話を、それだけの話を、いや映画として企画すること自体、尻込みするような話を、映画として魅せてしまう力業がすごい。舞妓はんにあこがれる主役の阿部サダヲが、最初から最後までハイテンションで突っ走る。

 着想が奇抜なら演出も奇抜。お茶屋をミュージカル仕立てにした群舞シーンがあって、元宝塚スターの真矢みきが生き生きと歌って踊る。ワクワク感は最高、このシーンを見るだけでも価値がある。

 阿部サダヲ演じる主人公は、社会からはみ出したような人間だが、落ち込むことなく、常にプラス志向で前に進んでいく。常識にとらわれることなくバイタリティー精神で物事にぶつかっていく。その活力あふれるエネルギーが、全編にもみなぎっており、この映画の最大の魅力となっている。

 元恋人役の柴咲コウも、主人公が勝手にライバル視する野球選手役の堤真一も、自分の役を楽しんでいるふうだ。ワンシーンだけだが、これが遺作となった植木等の味のある演技も心に残る。脚本・宮藤官九郎、監督・水田伸生コンビによる型破りの娯楽作品が誕生した。

■そのときは彼によろしく/

 人気作家・市川拓司の同名小説を平川雄一朗監督が映画化した「そのときは彼によろしく」は、音信不通になっていた幼なじみの三人が、十三年ぶりに再会するという物語である。現在と子ども時代を交錯させながら人と人との目に見えないつながりの不思議さを描いている。ファンタジー的な展開や、ある登場人物に時間的制約があるところなどは、先に映画化された市川原作の「いま、会いにゆきます」と似ている。

 ヒロインを演じるのは長澤まさみで、水草の店トラッシュを経営する遠山智史(山田孝之)の前に突然現れる。観客は彼女が幼なじみの滝川花梨と察しがつくが、智史が気付かないところが面白い。店の名前など今あるのはすべて子ども時代につながっているところがミソ。もう一人は五十嵐佑司(塚本高史)で、少年時代は絵の好きな男の子として登場する。その三人の子ども時代の描写が良い。

 なぜ「そのときは彼によろしく」なのか。悲劇調を帯びる後半になってその意味が分かる。が、この映画は、観客の期待を裏切らないラストを用意している。現実にはあり得ないが「こうなってほしい」という観客の願いに応える形で閉じる。甘い結末と見るかは、それぞれの判断。ただ、人を思う気持ちの強さが起こした奇跡と言える。

■プレステージ

 世界幻想文学大賞を受賞したクリストファー・プリーストの原作を、クリストファー・ノーラン監督が映画化。十九世紀のロンドンを舞台に、二人の天才マジシャン、ボーデン(クリスチャン・ベール)とアンジャー(ヒュー・ジャックマン)のライバル対決を描く。瞬間移動などマジックの醍醐味(だいごみ)にあふれた作品。引き付けられるのがマジックに魅せられた二人の男の生き方である。

 映画が推理仕立てになっているのも面白い。マジックの最中にアンジャーがおぼれ死に、そばにいたボーデンに殺人の疑いがかかってしまう。二人の間に何があったのか。映画は過去へとさかのぼる。マジックが娯楽だった十九世紀の大衆社会の空気をとらえた映像が、この謎に満ちたストーリーをさらに魅力的なものにしている。

 何より映画そのものにトリックがある。セリフなどに伏線が張られていて、最後の種明かしが最大の見せ場。終盤、ちょっとSFタッチとなり、評価が分かれるところかもしれない。

 脇役がぜいたくで、マイケル・ケイン、スカーレット・ヨハンソンと豪華。さらにデビッド・ボウイが実在した天才科学者ニコラ・テスラを演じていて、発明王エジソンを震え上がらせた人物として描かれる。この辺の時代描写がまた興味深い。

■300(スリーハンドレッド)

 フランク・ミラーのグラフィック・ノベルを、ファンだというザック・スナイダー監督が映画化。ペルシャ軍百万人による侵略を食い止めようとした、レオニダス(ジェラルド・バトラー)率いるスパルタ軍の精鋭三百人の勇猛な戦いぶりを、今までに見たことがない斬新な映像で描いている。

 ペルシャ戦争という史実を基にしているが、自分たちが命をかけることでギリシャを救おうとする犠牲的精神は、まるでメキシコ軍の侵攻を阻止するために、アラモの砦(とりで)に立てこもって戦い、全滅したアメリカの義勇軍と同じで、「300」はギリシャ版「アラモの砦」といった趣だ。

 わずか三百人で立ち向かった戦士たちの勇気ある行為が、レオニダスによって託された一人の戦士によって語り継がれていくあたりは、「300」が単に壮絶な戦闘描写を売り物にしたアクション映画でないことも示している。人々の心に生きる一つの伝説に昇華していくわけでまさにギリシャ神話の国にふさわしい物語までに高めている。

 それにしてもコンピューター・グラフィック(CG)を全編に活用した映像が革新的。CGがここまで物語を豊かにするとは想像もしなかった。原作の持つスタイリッシュでダークな世界観が心をとらえて離さない。

■ザ・シューター 極大射程

 国のために尽くしながら、国に裏切られて、復讐(ふくしゅう)を誓った男の戦いを、アントワーン・フークア監督が、見せ場たっぷりに描く。主人公は元米国海兵隊特殊部隊の名狙撃手だったスワガー(マーク・ウォールバーグ)で、米国大統領暗殺を謀った犯人に仕立て上げられてしまう。前半は、ワナにはまって負傷したスワガーの逃亡劇。後半は協力者の力を借りながら反撃に出て、事件の真相に迫ろうとする。狙撃という題材を最大限に生かしたストーリー展開、アクションが面白い。

 国、政府に対して懐疑的なスワガーのキャラクターがまたユニーク。それはそのままフークア監督の考え方なのかもしれない。ワナに落ちたスワガーに、自嘲(じちょう)気味に「愛国心、国家への忠誠という言葉に弱いんだ」と言わせている。

 スティーブン・ハンターの原作はベトナム戦争後の物語だったが、フークア監督は9・11後に変更している。山奥にあるスワガーの家のテーブルに9・11に関する本が一瞬だが映し出される。こうした娯楽映画を作る場合も、もはや9・11後の世界観を無視できなくなっているのだろう。実際、個人の正義ではどうにもならない権力構造が描かれていて、結末には無常観さえ漂う。悪役をダニー・グローバーが好演している。

■スパイダーマン3

 完結編は強敵がいっぱい。サンドマンにヴェノム、ニュー・ゴブリン。敵は自分自身だったという暗黒面に支配されたスパイダーマンも登場する。宇宙からやって来た未知の邪悪な生物も絡む。一作目で描かれた叔父殺しの真犯人、事件の真相も明らかになる。私生活の面では、理知的な美女が現れてメリー・ジェーンとの恋の行方が怪しくなる一方、仕事の上でもライバルのカメラマンが出現する。

 こんなに盛り込んで、上映二時間十九分の中に収まるのかと心配したが、サム・ライミ監督の手腕はさえて、予想もつかない展開で感動の結末へと誘う。

 シリーズを通してライミの視点は揺れることはなかった。人気コミックのヒーローが活躍する単純な娯楽作にすることもできたはずだが、平凡な青年と超人との間で揺れ動く主人公の葛藤(かっとう)を通して描いてきたのは、力の正義が支配する今の人間社会が失いかけているものである。シリーズが、こんな問い掛けで始まっていたことを覚えているだろう。

 「大いなる力には、大いなる責任が伴う」

 同時多発テロが起きた二〇〇一年に一作目が生まれたことと無縁ではない。完結編で示したライミの答えは、憎しみからは何も生まれないこと、許しが自身の救いになるということだ。

■ラブソングができるまで

 ラブ・コメディーのスターと言うと、英国ではヒュー・グラント、米国ではドリュー・バリモアだろう。この二人の共演が実現した話題作だ。監督・脚本はマーク・ローレンスで、グラントとは「トゥー・ウィークス・ノーティス」に続き二度目。

 グラントが歌って踊る。これだけでも見もの。一九八〇年代の人気バンドのボーカルだったという設定だからだ。本人は音楽嫌いだそうだが、今は落ち目の中年歌手というコミカルな設定が気に入ったらしい。バリモアは、有望な作家の卵だった女性として登場する。

 作曲の才能はあるが作詞はまるでダメというグラントと、詩をつくる才能に恵まれているが失恋の痛手で書く意欲を失っているバリモアが出会う。ボーイ・ミーツ・ガールの典型版。不安は片や英国スター、片やハリウッドスターというミスマッチのような組み合わせ。ところが意外にも初共演はドラマに魅力的な化学反応を起こす。

 二人でカリスマ的スーパースターのためにラブソングを作るはめになるという話が、そのまま二人の恋が成就するまでの話となり、二人の再生の物語となる。彼らを温かく見守るマネジャーや家族の存在がまたいい。スーパースター役のヘイリー・ベネットはこれが初の大役。今後の活躍が楽しみだ。
■ロッキー・ザ・ファイナル

 映画は公開されたときに映画館で見るように心掛けている。それでなくては得られない感動があるからだ。今回は感動に加えて感慨深いものがあった。一作目から三十年の歳月がたっていた。当時、まだ大学生だったが、それからロッキー(シルベスター・スタローン)の人生とずっと付き合ってきたことになるからだ。

 六作目は、タイトルからも分かるようにシリーズ最終作の意味合いが強い。監督・脚本も兼ねるスタローンが万感の思いを込めて作りあげた。最愛の人エイドリアンを亡くしたロッキーが、六十歳になって再びリングに上がろうとする物語だ。

 シリーズを通じて描かれてきたのは、どん底生活からハングリー精神で栄光の座をつかみ、挫折や敗北を味わいながらも常に前に進もうとしたロッキーの姿であり、自分のために、家族のために、友情のために戦ってきた不器用な男の人生である。そんな彼を三十年間も応援し続けてきた一人だが、逆に何度も人生に立ち向かう勇気をもらってきたような気がする。

 「挑戦しようとする人間を止める権利が誰にあるんだ」

 ロッキーのセリフに見るのは喪失感から立ち上がり、再生をかけて最後の夢に挑もうとする男の姿だ。六十歳を迎えたスタローン自身の挑戦でもある。

■ブラッド・ダイヤモンド

 ダニー(レオナルド・ディカプリオ)はダイヤ密輸組織の一員、ソロモン(ジャイモン・フンスー)は内戦で生き別れとなった妻子を探し歩く漁師、マディー(ジェニファー・コネリー)はダイヤ密輸と反政府組織の関係を探ろうとする女性記者。

 アフリカの内戦下の小国を舞台に、映画は三人の思惑を絡めながら、希少で市場価値の高いピンクのダイヤモンド争奪をめぐって展開する。

 実際にあったシエラレオネ共和国の内戦を基にしているところがミソ。難民キャンプの悲惨さや、さらわれた子どもたちが洗脳されて少年兵にされていく恐ろしさなどを挿入し、今の国際社会が抱える問題にも迫る。

 かといって深刻な作品ではない。事実とフィクションを巧みに融合させながら、アクションを見せ場にした良質なエンターテインメント作品に仕上げている。監督はエドワード・ズウィックで、その力量は「ラスト・サムライ」で実証済みだ。

 アクセサリーとしてのダイヤが、原産地での過酷な労働の下に産出されているという設定がシニカルだ。ゆえにタイトルも「ブラッド(血の)ダイヤモンド」なのである。

 ディカプリオが屈折した悪役を好演。今年のアカデミー主演男優賞にノミネートされたのもうなずける。

■ナイトミュージアム


 特撮の使い方は難しい。頼りすぎると物語がおろそかになるが、うまく活用すれば想像の世界に誘ってくれる。ショーン・レビ監督の「ナイトミュージアム」は後者だ。夜の博物館で起きる奇想天外な物語が空想の世界に連れて行ってくれる。

 展示されている生き物や歴史上の人物が、夜になると動きだす。骨格だけのティラノサウルスが走り回ったり、米国大統領セオドア・ルーズベルトがよみがえったりする。傑作はミニチュアでジオラマとして再現されたローマ帝国軍と西部開拓時代のカウボーイたちである。

 彼らと遭遇するのが、博物館に夜警の仕事を見つけたラリー(ベン・スティラー)。妻とは離婚、一人息子の信頼を得るためには父親として頑張らなければならないが、相手が相手。特撮が見どころで、悪戦苦闘ぶりがおかしい。でも、この映画の良いところは特撮を売り物にしながら、きちんと父子の絆(きずな)を描写している点。

 ホームコメディーと空想の世界をミックスさせて、楽しいファンタジーにした先輩格の映画というと「メリー・ポピンズ」(一九六四年)がある。そのときのディック・バン・ダイクが今回、ミッキー・ルーニーと共に出演。粋な配役だ。しかも往年スターのご両人が最後に華麗なダンスを披露。必見である。

■デジャヴ

 「クリムゾン・タイド」「マイ・ボディガード」と、アクション映画の快作を送り出してきたトニー・スコット監督、デンゼル・ワシントンのコンビによる三作目である。

 ワシントンの役は火器などを専門に扱う捜査官ダグ・カーリン。事件の現場となるのがミシシッピ川。海軍の兵士と家族を乗せたフェリーが突然、爆発を起こして大惨事となる。これが物語の発端で、テンポが良い。

 テロと判明するが、ストーリーの先が読めないのがこの映画の特徴。爆弾テロ事件に、美しい女性の遺体が絡んでくる。本格ミステリーの始まりかなと身を乗り出すと、またもや意外な展開が待っていて、その設定にびっくり。映画の評価が分かれるところかもしれない。SFめいてくるからで、監視テクノロジーに時間移動の要素を取り入れた発想が大胆。美しい女性の遺体に恋をした男が、過去を変えようとする物語という見方もできる。
 いろいろな娯楽要素を取り入れたスコット監督の野心作と言える。主役を張れるバル・キルマー、ジム・カビーゼルら個性的な俳優が脇に回っているのも見どころ。美しい女性の遺体となって登場するのが新星ポーラ・パットン。ハリケーン襲来後の傷跡も生々しいニューオーリンズでのロケも話題だ。

■ホリディ

 恋の痛手を受けたヒロインが旅先で新しい恋に落ちる。ありふれた話をナンシー・メイヤーズ監督が自らの脚本を基にひねりの効いたロマンチック・コメディーにした。まずヒロインを二人にした。さらに一人は米国、もう一人は英国の女性にして二週間、互いに家を交換して住むという設定にした。これがユニーク。着想の勝利である。

 ロサンゼルスからロンドン郊外の田舎にある、こぢんまりとした家に着くのがキャメロン・ディアス。逆にロサンゼルスの豪邸に住むことになるのがケイト・ウィンスレット。それぞれ出会う相手がジュード・ロウとジャック・ブラック。映画は二つの物語を同時進行で描く。

 が、メイヤーズは単純な”ボーイ・ミーツ・ガール”ものにしない。二人にもう一つの出会いを用意して、人生をやり直すきっかけを与える。傷つき悩みながら二人はそこで出会った人たちとの交流を通じて人生において大事なものを見つける。

 メイヤーズが目指したものが見えてくる。それは古き良き時代のハリウッド映画が持っていた薫り、心温まるヒューマンドラマの再現だ。今やハリウッドの伝説的スター、イーライ・ウォラックの出演はその象徴とも言える。会話がまたしゃれている。有名俳優が一場面、顔を出しているので、お見逃しなく。

■パリ、ジュテーム


 パリを舞台に一話五分の物語を作って−。この注文に世界中から集まった十八人の監督が挑戦。五分という制約の中で作れるのだろうかという心配をよそに喜劇あり、悲劇あり、青春ものあり、さらに怪奇ものありと、十八の魅力的な短編で一本の映画を構成。日本からは諏訪敦彦監督が参加。息子を失って悲嘆にくれる母親の前にカウボーイが出現する幻想的な物語を夜のビクトワール広場に描き出す。

 諏訪作品ではジュリエット・ビノシュとウィレム・デフォーが共演しているように、もう一つの楽しみは各短編に出演しているスターの顔触れ。ナタリー・ポートマン、イライジャ・ウッドら若手からスティーブン・ブシュミといった個性派、ニック・ノルティ、ファニー・アルダンらベテランまで登場する。故ジョン・カサベテス監督にささげた作品ではジーナ・ローランズとベン・ギャザラが共演していて感動的。ジェラール・ドパルデューも絡む豪華さだ。

 セーヌ川、エッフェル塔、モンマントル、モンソー公園とさまざまな表情を持つパリを背景に描かれるのは喜びや悲しみ、出会いや別れである。目線も生活者、観光客、移民・異人といろいろ。でもテーマは違っていても底に流れているのはパリへの愛。十八本の短編でパリを満喫できる。近く仙台で公開予定。

■ゴーストライダー

 原作は「X−メン」「スパイダーマン」を生みだしたマーベル・コミック。これらに続くヒーローもので、主人公は悪魔に魂を売った見返りに特殊能力を身に付けたジョニー。演じるのは原作のファンというニコラス・ケイジ。夜になるとガイコツのライダーに変身する。「X−メン」や「スパイダーマン」の主人公たちは特殊能力を得たことに悩んだりしたが、このガイコツのキャラクターは違う。初めは自分の能力に驚きながらも、その力を受け入れて愛する者のために使おうとする。

 悪魔の手先とならず、自らの意志を貫き愛のために戦うところがユニーク。悪魔に魂を売ったのも誘惑に負けたからではなく愛する父を救うため。主体性を持って行動するところがいい。今回の敵は人間界を支配しようとする悪魔の息子。特殊能力者同士の死闘が見せ場となる。超自然的な要素や西部劇風の味があるのも魅力的。

 悪魔と契約する話は西欧にはよくあり、有名なのはゲーテの「ファウスト」に登場する悪魔メフィスト。この映画の悪魔もメフィストというからおかしかったが、ピーター・フォンダが楽しそうに演じている。監督はマーク・スティーブン・ジョンソン。「デアデビル」に続いてアメリカンコミックのヒーローを映画化した。

ボビー

 俳優エミリオ・エステベスが自らの脚本を基に監督。「ボビー」の愛称で親しまれ、アメリカ大統領候補だったロバート・F・ケネディ上院議員を描く。兄はジョン・F・ケネディ大統領で、一九六三年に暗殺される。五年後の六八年六月五日、今度はボビーが遊説先のロサンゼルスのホテルで凶弾に倒れる。

 映画はその日、ホテルに居合わせた人たちのドラマで構成されている。悲劇的な夜を迎えるまでのそれぞれの一日が群像劇で描かれる。登場人物たちの人間関係からあぶり出されるのは当時のアメリカ社会が抱えていた諸問題だ。泥沼化していくベトナム戦争、人種差別、移民問題、貧困問題などである。

 不安な社会の中で多くの国民にとって希望の光がボビーだった−とエステベスは語る。彼自身、ボビーの死を六歳のときの出来事として記憶しているという。そのボビーを取り上げる意義を強調する。「暴力は暴力を生み、抑圧は報復を生む」と説いたボビーの政治理念、理想主義は現代にも通じるからだ。

 個人的な思いから出発した映画化は多くのスターの共感を呼び、アンソニー・ホプキンス、シャロン・ストーン、デミ・ムーアといったスターが大挙して出演。当時の実写フィルムを巧みな編集で織り交ぜながらボビーを今によみがえらせる。

■世界最速のインディアン

 アメリカ・ユタ州のボンヌビルは世界最速を目指すライダーたちにとって聖地だという。ここで走ることを夢見たのがバート・マンローというニュージーランドの人で、はるばる船で海を渡って挑戦した。一九六二年のことである。彼の生き方に引かれて「世界最速のインディアン」という映画を作ったのがロジャー・ドナルドソン監督。インディアンとは彼が長年愛用したバイクの名前である。

 なぜ、マンローに魅了されたか。答えは映画の中に描かれている。若者ではなく心臓にも病気を持ち、収入は年金のみという初老の男だったからである。こつこつ貯金して挑戦したのが六十三歳のとき。彼の夢を実現させようと町の人たちも協力。アメリカでも行く先々で市民が彼の人柄に引かれて応援する。さわやかなロード・ムービーに仕上がっている。事前に手続きをしていなかったために出場が危ぶまれたりといったトラブルを乗り越えて、彼は愛用のインディアンで世界記録を目指して疾走する。アンソニー・ホプキンスがマンロー役を楽しそうに演じている。

 彼のセリフはそのまま人生の名言である。

 「危険が人生に味をつける」

 「顔にしわがあっても心はまだ十八歳だ」

 型破りで愛すべき男の物語である。

■幸せのちから

 原題は日本語のタイトルと少しニュアンスが違っていて「幸せの追求」である。

 クリス・ガードナー(ウィル・スミス)は医療機器のセールスマン。だが全く売れない貧しい生活に妻は去り、家賃滞納でアパートも追い出される。一人息子とのホームレス同然の生活に陥る。そこで一大決心。一流証券会社を目指す。自分は高卒に対してライバルたちは大卒ばかり。六カ月の研修期間中は給料も出ない。採用は一人だけ。ガードナーの幸せを求めた闘いが始まる。映画だから描けるアメリカン・ドリームかと思ったら実話を基にしているという。

 原題は合衆国の独立宣言の一節から取っている。「幸せを追求する権利は誰にでもある」とうたわれているが、ガードナーは「『追求』という言葉が余計だ。『幸せの権利』を約束してくれれば良かったのに」とぼやく。しかし、この主人公、めげるときもあるがプラス志向型の人間らしく逆境に強い。舞台となる坂道の街サンフランシスコを走り回る。その孤軍奮闘ぶりをスミスが熱演している。

 実の親子共演も話題。製作者でもあるスミスは、監督にハリウッド映画初となるイタリア人のガブリエレ・ムッチーノを起用。彼のイタリア作品が気に入ったからという。この映画にかける意気込みが伝わってくる。

■夏物語


 韓国映画得意の泣かせる映画だが、時代背景が興味深い。自由な現代ではなく強権的な独裁政権下にあった一九六九年を設定にしたラブストーリーだからだ。そのときの夏の出来事が当時大学生で今は大学教授になっているソギョン(イ・ビョンホン)の回想で語られる。それは生涯、胸に秘めてきた女性ジョンイン(スエ)の思い出だ。

 国民を統制していた時代で、映画でも自由を求める学生たちの抗議運動が描かれる。北朝鮮や共産主義に脅威を感じていた時代でもあり、その空気が軍事教練を通して伝わってくる。

 また当時、学生たちは積極的に農村に奉仕活動に出向いたという。農民の意識を目覚めさせるのが目的だったらしい。映画では、この奉仕活動が物語の重要な要素になっている。ソギョンたち学生が集団で奉仕活動しに農村に行く。そこで出会うのが村の図書館司書をしているジョンインである。彼女の父が共産主義者だったことが分かったりして、二人の運命は時代に翻弄(ほんろう)される。

 いかにも政治色の強い暗い映画に思えてしまうが、基本は純愛路線。チョ・グンシク監督は二人の純粋な思いをストレートに描く。ユーモラスなシーンもけっこうある。人類が月面に立った年の夏の出来事として描かれているのが印象深い。

■ディパーテッド


 香港映画の傑作「インファナル・アフェア」をマーティン・スコセッシ監督がリメーク。出演はレオナルド・ディカプリオやジャック・ニコルソン、マット・デイモンと豪華。彼らが警察とマフィアに分かれて対決する。非情の世界に生きる男たちの生きざまがテーマで、スコセッシの演出はリアリズムに徹している。構図は単純ではない。互いにスパイを潜入させて情報を得ようとすると同時に、組織内に潜り込んだ”ネズミ”を探そうとする。ハリウッドが映画化権を買ったのも、このユニークな設定に魅せられたからだ。

 マフィアに潜入するのがディカプリオ、警察に入り込むのがデイモン。二人の正体を知らないで接するのが女性の精神科医(ビーラ・ファミーガ)で、重要な役だ。自らの立場に悩み苦しむディカプリオ、今の立場を利用しようとする権力志向のデイモンと、二人の生き方が彼女を通してコインの裏表のように浮き彫りにされていく。

 香港映画との違いは移民問題を背景にしている点だが、ボストンのアイリッシュ系マフィアを題材にしているのは珍しい。ボス役を楽しんでいるのがニコルソン。移民の歴史を語るなど教養人の一面を見せたりする。スコセッシの演出にも余裕が感じられる。「第三の男」のラストをまねたシーンには驚いた。

■マリー・アントワネット

 浪費家、知的でなさそうな女性、またはフランス革命の動乱を生きた悲劇の王妃。これがこれまでマリー・アントワネットに持たれてきたイメージだ。だが、生誕二百五十年を迎えた二〇〇五年を一つの節目に彼女を見直す機運が生まれている。

 その一つがソフィア・コッポラが監督した「マリー・アントワネット」だ。アントニア・フレイザーの原作に感銘したコッポラが「教科書に出てくる彼女を撮る意味はない」というスタンスで、新しいアントワネット像を示す。オーストリアの運命を背負って政略結婚という形でフランスへ嫁ぎ、世継ぎを生むことを義務づけられたのが、わずか十四歳の女の子だったという事実に着目。陰謀渦巻く異国の宮廷の世界に放り込まれた少女が、孤独からぜいたくざんまいに走りながらも、試練を克服して女性として母親として成長していく姿を、女性監督が共感をもって描く。

 徹底してアントワネット(キルスティン・ダンスト)の視点で描かれているのがみそ。宮廷から隔絶された庶民の生活が見えないところが意味深長だ。

 重厚な歴史劇を期待すると肩すかしをくう。華麗な青春映画といった感じで、使われている音楽も一九七〇、八〇年代のポップスだ。見ものはベルサイユ宮殿での本格ロケである。

■NANA2

 「デスノート」をはじめ人気コミックの映画化が相次いでいる。「NANA」もそうで、二年前に公開された一作目は若者たちの支持を得てヒットした。一、二作に共通しているのは、生き方も、性格も対照的な、名前だけが同じナナという二人の若い女性の物語が、友情を軸に描かれていることである。

 原作を読んだことはないが、その世界に意外と引かれるものがある。二人のヒロイン(中島美嘉、市川由衣)が織りなすドラマで、音楽が大きなウエートを占めている物語だが、そこに青春映画としての普遍性を見いだすことができるからだ。不安や孤独もある、挫折も味わったりする。それ以上に自分の夢や可能性を信じて、悩み傷つきながらも前向きに生きようとする彼女たちの姿に共感を覚える。

 続編となる二作目は少しほろ苦い味わいに仕上がっている。永遠に続くものと思われたものが実は違うという現実が重くのしかかってくるからだ。それぞれの道を歩み出すことを暗示して映画は終わる。

 出演者の一部交代劇があったりと二作目は完成まで難航したようだが、監督の大谷健太郎は一作目に続いて二人のナナを中心にした青春群像にまとめ上げている。冒頭とクライマックスに描かれる夜の新宿の街を生かしたライブが見どころ。 

■エラゴン 遺志を継ぐ者

 新しい冒険ファンタジー映画が誕生した。中世を時代背景にドラゴン伝説にまつわる善と悪の対決が繰り広げられる。主人公は運命と向き合いながら戦う少年エラゴン(エド・スペリーアス)で、彼の冒険と成長物語が軸となる。大空を飛ぶドラゴンや魔法も登場するなど大人から子どもまで楽しめる娯楽作。物語自体のレベルは、ちょうど「ロード・オブ・ザ・リング」と「ナルニア国物語」の中間に位置するような感じ。

 というより、これは「スター・ウォーズ(S・W)」の中世版ではないかと思うほど、ストーリーやキャラクターの設定などに多くの共通点を見いだすことができる。原作者がクリストファー・パオリーニというまだ二十三歳の青年。これを書き始めたのが十五歳のとき。S・Wの影響を受けた作品が現れる時代になった。

 監督シュテフェン・ファンマイアーにとってデビュー作。エド・スペリーアスも新人。その分、脇が充実。ジェレミー・アイアンズ、ジョン・マルコビッチ、ロバート・カーライルらがドラマを盛り上げる。ドラゴンの声を担当しているのがレイチェル・ワイズという豪華さ。ドラゴンは気高く誇りあるレディーなのである。

 三部作になる予定で、さしずめ二作目は「悪の逆襲」か。

■犬神家の一族

 これは九十一歳になる市川崑監督の壮大な遊び?。

 リメークだが名作の単なる再映画化ではない。三十年前に手掛けた作品を自ら再び映画化、しかもそのときの脚本をテキストにして演出、主役の探偵・金田一耕助も同じ石坂浩二が演じている。テーマ曲も同じだ。あの大野雄二が作った、流麗だがどこかもの悲しい旋律が残酷な運命に操られた犬神家の人々の悲哀を浮き彫りにしていく。

 ここまで徹底的にこだわりなりながら決して三十年前のオリジナルのコピーにはなっていない。新作として楽しめる。遺産相続をめぐって犬神家に起きる連続殺人の犯人の正体も、ストーリー展開もすべて分かっているにもかかわらず、市川監督が作りだす華麗な映像美にまたも魅せられてしまう。謎解きに加えて欲と愛憎、悲しみが渦巻く人間ドラマが面白い。

 ファンにとっては「金田一さん、事件ですよ」という言葉とともに金田一が帰ってきたうれしさの方が大きいかもしれない。プロデューサーの一瀬隆重自身がそうで、三十年前に映画館で見たときの感動が忘れられなくてこれを企画したという。最後の最後、そんなファンのために粋な演出をしてくれる。市川監督がなぜ同じ作品を作ったのか。答えは三十年という歳月の流れの中にこそあった。

硫黄島からの手紙


 太平洋戦争のとき硫黄島は日米両国にとって戦略的に重要な位置を占めていた。その硫黄島での激戦を、クリント・イーストウッド監督は国対国の物語にせずに個の視点に徹して描いている。「硫黄島からの手紙」は日本側から見た物語というユニークなアメリカ映画である。

 主要人物は五人。留学の経験でアメリカに友人もいる指揮官・栗林中将(渡辺謙)、妊娠している妻を残してきたために生きて帰ることだけを願う若い兵士・西郷(二宮和也)、ミステリアスな雰囲気を漂わせる憲兵隊と思われる清水(加瀬亮)、軍人としての誇りを生きがいとする伊藤中尉(中村獅童)、一番驚いたのがロサンゼルス・オリンピックの馬術競技で金メダルに輝いたバロン西(伊原剛志)の存在だ。

 イーストウッドは五人のそれぞれ個の生き方を通して戦争の空しさ、残酷さを突きつける。強調されるのは家族との絆(きずな)であり、手紙が象徴的に使われる。手紙ほど個人的なものはないからだ。

 今も一万三千人が眠る硫黄島に立ったとき「戦争の悲劇に圧倒されるばかりだった」とイーストウッドは語っている。アメリカ側から描いた「父親たちの星条旗」と併せるとさらにテーマが浮き彫りになる。七十六歳とは思えないこん身の力作だ。

■007カジノ・ロワイヤル

 007シリーズの中でも傑作の方に入るのでは。マーティン・キャンベル監督による二十一作目は新しいジェームズ・ボンド映画を作ろうとする気概がみなぎっている。荒唐無稽(むけい)に陥ることなくリアリティーを重視、アクションも特撮ではなく生身の動きで魅せる。

 映画はイアン・フレミングが初めてボンドを登場させた小説「カジノ・ロワイヤル」が原作。一九五三年発表なので設定を現代に合うように変えている。ボンドの敵となるル・シッフル(マッツ・ミケルセン)は国際テロ集団、独裁者に通じている危険人物といったようにだ。

 ボンドガールという言葉も死語になった。男性優位主義はもはや見られない。ヴェスパー(エヴァ・グリーン)はボンドと対等に渡り合う。初対面で互いの観察力を競い合うシーンが面白い。肉体派ではなく知性派美人がボンドの相手となる。

 何より007映画を新鮮で魅力的なものにしたのは六代目ボンド役のダニエル・クレイグだろう。人間味があって、それでいて冷酷な面を併せ持った複雑なボンド像を作りあげた。ル・シッフルとのポーカー対決はアクションシーンより見ものだ。

 一番驚いたのは、あのおなじみのテーマ曲で始まらないことだったが、粋な演出で最後に楽しませてくれる。

■トゥモロー・ワールド

 アルフォンソ・キュアロン監督の「トゥモロー・ワールド」は、約二十年後のロンドンを舞台にした近未来もの。原作はイギリスのミステリー作家P・D・ジェイムズの「人類の子どもたち」。キュアロンは子どもが生まれなくなり、破滅に向かう未来社会の話に興味を持ち映画化。結果的には原作とはだいぶ異なった内容になったようだ。

 SFというと架空の物語を連想するが、この映画に描かれる世界は現実社会の二十年後を予言したような恐怖と混乱に満ちている。爆弾テロ、強制的な移民排除と、「9・11」後の世界を意識していることは明らか。社会の秩序を保つために警察権力が支配しているという設定も不気味。見る者を不安にするのが子どもが一人もいないことだ。

 映画は一貫してエネルギー省に勤務するセオ(クライブ・オーエン)の視点で描かれる。平和活動家だったが、わが子を事故で亡くしてから生きる気力を失い、今では体制側になったという人物設定が興味深い。ある事件に巻き込まれていくうちに自身の中で何かが目覚めていく。キュアロンが示すのは絶望の中の一条の光である。ラスト、画面が暗くなった瞬間、場内に響きわたる声にキュアロンの希望が込められている。元妻役にジュリアン・ムーア、親友にマイケル・ケインが共演。

サッド・ムービー

 
四組の男女の物語を同時進行で描いた、韓国映画には珍しい群像劇である。八人の男女が登場し、それぞれの愛の形と別れが描かれる。

 四つの物語はそれぞれ独立しているけれど、姉妹の話があったり、母と子のエピソードがあったりと、八人は同じ街に住んでいるところがミソ。微妙にすれ違ったり、かかわりを持ったりしながら展開する。

 クォン・ジョングァン監督にとって、これが長編二作目ということだが、多様な登場人物たちの物語を交錯させながら一時間四十九分の中にうまくまとめている。

 何より見どころは、物語(脚本)の美しさに引かれて集まったスターの顔ぶれだろう。
 「デイジー」のチョン・ウソン、「猟奇的な彼女」のチャ・テヒョンという男優陣に、「箪笥(たんす)」で共演したヨム・ジョンア、イム・スジョンらの女優陣が加わり、四つの物語をさらに魅力的なものにしている。

 タイトルを直訳すれば「悲しみの映画」。しかも韓国映画。感情オーバーな作りになっているのではと、見る前は危ぐしたが、いらぬ心配だった。抑制された演出でつづられていく。しかも意外とさわやかだ。別れた後も生きていかなければならない登場人物たちを見つめる、ジョングァン監督の視点が温かいからだ。


■手紙

 罪を犯した者とその家族は、罪の重さを背負っていかなければならない。東野圭吾の原作を基に生野慈朗監督が問い掛けるのは、血のつながりとは何かだ。答えとして描かれるのが「償いと許し」である。そこには人間を温かく見守る生野監督のまなざしがある。

 物語自体は目新しいわけではない。殺人犯の兄を持ったために弟が社会で苦労するという話だ。が、この作品をユニークにしているのがタイトルにもなっている手紙である。

 服役中の兄武島剛志(玉山鉄二)と世間の偏見や差別に耐えながら生きる弟直貴(山田孝之)をつなぐのが手紙である。また、手紙が登場人物たちの心を動かしていく。

 直貴と会社の会長・平野(杉浦直樹)との出会いも一通の手紙がきっかけだ。差別があるのが現実の社会である半面、信頼してくれる人が必ずいること、新たな人間関係を築いていくことが大切であることを平野が語る。直貴に人生を見つめ直させる重要なシーンで物語の転換点となる。

 被害者の家族の視点も取り入れることでドラマに深みをもたらしている。原作では歌だったが、直貴がお笑いの世界に生きようとしたエピソードも重要な役割を果たす。直貴を支える白石由美子役を沢尻エリカが好演、ほかに風間杜夫、吹石一恵らが直貴の人生にかかわってくる。

■地下鉄(メトロ)に乗って


 
もしタイムスリップして若いころの父に会ったなら。結婚する前の若いころの父の夢を知れば、生き方に触れれば、今の父へ抱いている思いは変わるだろうか。浅田次郎の原作を映画化した「地下鉄(メトロ)に乗って」の主人公・長谷部真次(堤真一)が体験するのがそれだ。

 真次は、事業に成功した父・小沼左吉(大沢たかお)に反発してきた人間として描かれる。左吉の家族への横暴や反社会的な生き方が許せず、親子の縁を切って小企業の営業マンとして働いている。その真次の身に不思議な出来事が起きる。若き父との出会いだ。「父が倒れた」という現在との間で揺れる真次の心の動きが描かれていく。

 いつもの地下鉄を降りて、外に出る階段を上ったら、そこは東京オリンピックに沸く昭和三十九年の東京だったという発想はユニーク。SFというよりもファンタジー色が強い。真次の恋人・道子(岡本綾)もタイムスリップに巻き込まれていき、予想外の結末が待っている。この結末に共感できるかどうかが作品を評価する上で分かれるところだろう。監督は篠原哲雄。

 それにしても映画は昭和ブーム。今回も昭和世代の人には懐かしい光景が広がっている。小沼左吉の恋人役お時に常盤貴子がふんしていて、物語の鍵を握る一人として登場する。


■父親たちの星条旗


 楽しみにしていた一本。製作スティーブン・スピルバーグ、監督クリント・イーストウッドと強力コンビによる作品だ。太平洋戦争末期、日米が激戦を繰り広げた硫黄島が舞台。話題になっているのが二部作方式。現在公開されている第一弾はアメリカ側から見た硫黄島である。

 六人のアメリカ兵が、山の頂上に星条旗を掲げる写真を見たことがある人もいるだろう。硫黄島の摺鉢(すりばち)山で撮影されたもので、この一枚の写真がアメリカ国民を鼓舞し、太平洋戦争の運命を変えたと言われる。映画は、その写真の裏に隠された真実を描いている。

 それは英雄に祭り上げられた兵士たちの苦悩であり、戦争の悲惨さであり、国家による愚行である。戦闘シーンをモノトーンで処理するなど、従来のハリウッド製の娯楽性に満ちた、ヒーローが活躍する戦争アクション映画とはかなり違う。

 原作があって、著者は六人のうちの一人だった衛生下士官ジョン・ブラッドリーの息子ジェイムズ・ブラッドリー。生前、決して家族に話すことがなかった父ジョンの星条旗にまつわる話を、関係者らに精力的に会って、ロン・パワーズとの共著の形でまとめあげた。

 第二弾「硫黄島からの手紙」は十二月公開。日本側から見た硫黄島が描かれる。

■ブラック・ダリア

 ブライアン・デ・パルマ監督を論じた『デ・パーマ・カット』で、著者のローラン・ブーズロウは「カメラだけでストーリーを語ることのできる」と高く評価している。その通りデ・パーマ作品の特徴は流れるようなカメラワークにある。

 ジェイムズ・エルロイの同名小説の映画化で、一九四七年にロサンゼルスで実際にあった猟奇的な殺人事件をモデルにした「ブラック・ダリア」でも、その腕前は健在。刑事リー(アーロン・エッカート)とバッキー(ジョシュ・ハートネット)が張り込んでいる建物を、カメラはなめるように上昇、屋上から向かい側の通りを、助けを求めて二人のいる方に走り出す女性の姿を映し出す。この一連の流れにデ・パルマ作品の魅力がある。カメラが動きだすと物語も一気に加速する。この場合は二人の刑事が担当している事件とブラック・ダリア事件がついに交錯する重要なシーンとなる。

 実際の事件は迷宮入りとなるが映画は一つの答えを示す。デ・パルマの心をとらえたのは事件の要因となるハリウッドの魔力、大都市の複雑な人間模様、犯罪の薫りである。三人の女性(スカーレット・ヨハンソン、ヒラリー・スワンク、ミア・カーシュナー)の妖(あや)しげな魅力が、この映画の一番の見どころかもしれない。

■16ブロック


 「16ブロック」「ザ・センチネル」と映画をはしごしたら、昔よくあったアクション映画の二本立てを見たような楽しい気分になった。紹介するのは「16ブロック」。リチャード・ドナー監督の最新作である。

 さえない刑事をやらせたらブルース・ウィリスが最高。アルコールを手放せない、やる気のないニューヨーク市警の刑事ジャック・モーズリー役で、警察署から十六区画離れた裁判所に囚人のエディ(モス・デフ)を証人として護送することになる。簡単と思われた仕事が、これがさにあらず命懸けの仕事となる。エディの証言を快く思わない連中が真っ昼間の街の中で襲いかかってくるからだ。

 映画は、その連中の正体をあっさり明かす。焦点は証言の時間まで到着できるかというサスペンスにある。ダメ刑事の烙印(らくいん)を押されたモーズリーが敵と戦い、エディを守っていくうちに刑事としての、人間としての誇りを取り戻していくところが見どころ。ニューヨークの雑踏を生かしたアクションがまた小気味良い。

 モーズリーとエディのコンビがユニーク。「リーサル・ウェポン」のときもそうだったが、ドナー監督作品の面白さは対照的なキャラクターのコンビぶりにある。特撮に頼らない、こんな娯楽作品をもっと見たい。

■涙そうそう

 BEGINが作曲して、森山良子が作詞した「涙そうそう」を基に作られた。幼少のころから兄妹のように育ってきた洋太郎(妻夫木聡)とカオル(長澤まさみ)の物語が沖縄を舞台に描かれる。土井裕泰監督は大ヒットした「いま、会いにゆきます」でデビュー、これが二作目となるが、歌の根底にあるメッセージを映像化しようとした。それは、愛する人と別れることがあっても心の中で大事にしながら生き続けること、生きる力にしていくことである。

 特にドラマチックな展開があるわけではないので、単調に感じる人もいるかもしれない。二人の時間の流れをメーンに、周囲の人たちとの交流を交えながら淡々と、どちらかというと抑えた演出でつづっていく。

 妹思いの兄と兄思いの妹が織りなす物語は、人を思いやって生きるとは、家族の絆(きずな)とは−といったことを考えさせられる。土井監督の狙いか、行間から多くのことが読み取れる小説があるように、セリフのないシーンから二人のあふれるような感情が伝わってくる。

 妻夫木、長澤という旬の若手スターの共演が見どころ。脇を固める小泉今日子、麻生久美子、森下愛子といった女優陣も魅力的だ。男優陣では船越英一郎、橋爪功の二人が意外な役で顔を出している。

■レディ・イン・ザ・ウォーター

 M・ナイト・シャマラン監督の最新作は、どんでん返しがない。「シックス・センス」をはじめ衝撃的な結末が彼の十八番になっていた。それがない。物足りなさを感じるファンもいるかもしれない。ミステリーというより、現代人のためのおとぎ話と言える。彼が娘に語り聞かせてきた自前のおとぎ話を膨らませて映画化した。

 ここに彼なりのこだわりがある。物語が秘める想像力の素晴らしさ、物語自体が持つ力を証明しようとしてきた。彼独自の物語を映像にして紡いできた。それが今回一番シンプルな形で描かれている。ヒロインである若い女性(ブライス・ダラス・ハワード)の名前が象徴的だ。「ストーリー」である。フィラデルフィアのアパートに住む多種多様な人々と、ある目的を果たすためにやって来た彼女の物語が語られていく。もちろん怖いシーンも随所にあり、ホラー演出は健在だ。

 彼女の正体が解き明かされていくと同時に、アパートの管理人(ポール・ジアマッティー)の喪失と再生、絶望と救済が描かれる。これは彼の作品の中で繰り返されてきたテーマだ。その他大勢と思われた登場人物たちが、それぞれの役割を持ち始める展開がまた面白い。信じようとする心を持つことの大切さを描いた映画でもある。

■シュガー&スパイス 風味絶佳

 「誰も知らない」(二〇〇四年)で、二〇〇四年カンヌ国際映画祭・最優秀男優賞を受賞した柳楽優弥が主人公・志郎を演じている。沢尻エリカふんする年上の女性・乃里子との単純な恋愛ものかと思ったら、意外にも高校を卒業した少年の成長物語になっていて興味を覚えた。

 しかも中江功監督独自の映像感覚が不思議な魅力を与えている。日本であって日本でないような風景、空間が物語の重要な要素を占めている。米軍基地のある東京・福生市を舞台にしているのが大きな要因だろうが、中江監督はさらに意識的に不思議な空間をつくりだしている。

 その象徴が志郎がアルバイトするガソリンスタンドだ。アメリカの西部を思わせる殺風景な土地にポツンと建つそれは、アメリカ映画「バグダッド・カフェ」を連想させる。志郎の祖母役を演じる夏木マリが経営するバーもまた米兵がいたりと、かなり異空間的な場所だ。

 恋の行方は、こうしたどこにでもあるようで、どこにもないような世界の中で描かれる。かといってメルヘンチックではない。とりあえず大学に入ろうではなく、とりあえず働いて自分の道を探そうとする少年の生き方は応援したくなるが、厳しい現実が立ちはだかる。喪失感をテーマにした、ちょっとほろ苦い青春映画となっている。

■マッチポイント

 ニューヨーク派のウディ・アレン監督が、ロンドンで撮影して話題になったのが「マッチポイント」だ。上流階級の娘クロエと結婚して将来を約束された青年クリスが、以前から引かれていたノラと関係をもってしまい妊娠したことを告げられる。富か愛か。追い詰められたクリスが選択したのはノラを消すこと。完全犯罪は成功するのか。

 設定がエリザベス・テーラーとモンゴメリー・クリフトが共演した一九五一年のアメリカ映画「陽のあたる場所」と似ているが、結末は違う。それは見てのお楽しみ、アレンらしくひとひねり効かせている。前半はクロエの兄で、ノラの婚約者だったトムも絡んで、四人の男女の心理関係をウイットと洗練された会話で見せる。後半は一転、サスペンスタッチが濃くなる。

 イギリスの上流社会を舞台にしており、アレンにとっては一つの挑戦だったが、ロンドン撮影にこだわった理由が分かるような気がする。この伝統的な雰囲気はニューヨークでは出せない。映画を魅力的にしているのがオペラの名曲という点も、今までのジャズを使ったアレン映画とは趣が異なる。クリスを元プロテニス選手に設定し、勝敗と運、人生と運命を、皮肉も込めて重ねていくところは演出の妙。アレンが運命論者であることが分かったりして興味深い。

■グエムル 漢江の怪物

 ソウルを流れる川・漢江(ハンガン)に、突然変異の巨大生物が出現して人間を襲い始めるという、韓国映画には珍しいモンスター映画である。

 だが大都市を破壊したりする日本の怪獣映画のような特撮を期待すると外される。軍隊との対決シーンもない。ポン・ジュノ監督の興味は別なところにあるようで、怪物に娘をさらわれた一家の救出劇をメーンにしている。しかも風刺と笑いを盛り込みながら、恐怖とのバランスが絶妙。

 救出に向かう家族四人が全員頼りない点も、この種の映画ではユニークな設定だ。最低一人は頼りになる存在がいるものだが、ソン・ガンホ演じる主人公の父親がそもそもダメおやじ的。怪物との戦いで最後の一撃を空振りしてしまう祖父や叔父の姿はこっけいでさえある。だからか、この一家に愛着、親近感を抱いてしまう。弱いけれど愛する者のために懸命に怪物に立ち向かう姿に共感する。

 見終わって印象に残っているのが一家のきずなであり、いたわりであり、娘が示した勇気であったりする。一風変わったモンスター映画になった。怪物は社会不安の象徴とか、背景に北朝鮮の拉致問題があるとか、いくらでも深読みもできる。「殺人の追憶」に続くジュノ監督の最新作は寓意に満ちている。

■僕の、世界の中心は、君だ

 二年前、大ヒットした日本映画「世界の中心で、愛をさけぶ」を韓国がリメーク。監督はチョン・ユンス。「最も美しい初恋のストーリーを、最も美しい方法で描きたかった」と語るように、同じ高校に通うスホ(チャ・テヒョン)とスウン(ソン・ヘギョ)のみずみずしい初恋物語に仕上げている。映画は過去の出来事を扱いながら回想形式の形をとっていない。現在が映し出されるのは最初と最後だけで、高校時代をメーンに描いている点が韓国版の特徴である。

 平凡な高校生スホと、男子のあこがれの的スウン。だが、長い間、思いを寄せていたのはスホではなく、スウンだったという意外な展開から二人の初恋物語は始まる。さわやかな二人の関係がつづられていく。だが、幸せは長くは続かない。

 コメディータッチが見られる前半とは対照的に、後半は悲劇へと転調する。ヒロインが不治の病にかかるという設定は、この種の映画の定石。でもユンス監督が、悲しい結末の中に描こうとしたのは人を思いやる気持ちの美しさ、尊さである。スホの祖父が初恋の女性をずっと思い続けてきたというエピソードを重ね合わせていく演出がうまい。「猟奇的な彼女」で人気が出たテヒョンは三十歳、ヘギョは二十四歳だが、自然なくらい高校生になりきっていた。

■UDON

 「踊る大捜査線」シリーズで知られる本広克行監督が、古里に錦を飾る映画を、と作ったのが香川県を舞台にした、タイトルもユニークなコメディー「UDON」。発想が奇抜。古里の名産・讃岐うどんをテーマにしている。タウン誌のうどん企画がヒットして、全国各地から観光客が押し寄せるという内容。

 グルメブームに目を付けたところがヒットメーカーらしい着眼点。「踊る−」シリーズがそうだったが、一種の群像劇になっている。ユースケ・サンタマリアが演じる松井香助を軸に、彼を取り巻く家族や友人たちにも焦点を当てて、ドタバタの中にそれぞれの生き方や人生を浮かび上がらせる。

 いろんな人間ドラマが隠し味となっている。うどん作り一筋の頑固な父(木場勝己)と家業を継がず一度は家を飛び出し、今はタウン誌で働く香助との親子関係がメーン。香助と共にうどん巡りをする鈴木庄介(トータス松本)との友情、タウン誌の編集者・宮川恭子(小西真奈美)とのコンビぶりも興味を引く。香助に代わり父を支えてきた姉夫婦(鈴木京香、小日向文世)の存在もドラマに膨らみをもたらしている。遊びの精神も随所に見られるが、これは評価が分かれるところ。ただ空腹のままで見ない方がいい、ということだけは確かだ。

■スーパーマン リターンズ

 「X−MEN」シリーズの完結編となる三作目から降板してまでブライアン・シンガー監督が手掛けたのが「スーパーマン リターンズ」である。一番好きなヒーローで、特に一九七八年の「スーパーマン」に思い入れがあるという。その証拠に当時、スーパーマンの父親を演じたマーロン・ブランドの映像を再編集して今回の新作に復活させている。ジョン・ウィリアムズの勇壮なテーマ曲もそのまま使用している。宿敵もおなじみのレックス・ルーサー(ケヴィン・スペイシー)だ。

 シンガーは、自分を魅了したスーパーマン(ブランドン・ラウス)の世界を最新技術でよみがえらせる。クリプトン星から来たスーパーマンにもう一度、地球を舞台に活躍してもらう。「人間の善なる部分を信じよ」がキーワードになっている。敵との戦いよりも危機に陥った恋人ロイス・レイン(ケイト・ボスワース)や人類を救うために全力を尽くすスーパーマンが描かれる。正義を振りかざすのとも違う。彼の無償行為が人々の心に希望をともしていく。

 アメリカの覇権主義、テロで揺れる国際社会という現状を考えると、シンガーが人類のヒーローに込めようとしたメッセージが見えてくるようだ。映画はいろいろな可能性をはらんで終わる。新シリーズ誕生の予感がする。

■親密すぎるうちあけ話

 見ず知らずの、それも魅力的な女性から、その人のとても個人的な話を打ち明けられたら、男はどう反応するだろうか。

 たぶん、こんな思い付きから生まれたのがパトリス・ルコント監督のこの映画ではないだろうか。女性はサンドリーヌ・ポネール演じるけん怠感漂う主婦アンナとなり、男はファブリス・ルキーニ演じる独身税理士ウィリアムとなった。しかも物語をひとひねりしているところがミソ。精神科医を訪ねるところを、アンナが間違って同じ階にある税理士ウィリアムの事務所をノックしてしまい、彼を精神科医モニエ(ミシェル・デュショソーワ)と勘違いして自分の悩みや秘密をしゃべり始めてしまう。設定は喜劇的だけれど本人たちにとっては深刻な状況。

 まるで舞台劇を見ているような緊迫感をはらみながらサスペンスが高まっていく。殺人事件が起きるわけではない。でもルコントは一番のミステリーは男女の心理と言わんばかりに、アンナとウィリアムの心の中をのぞいていく。「仕立て屋の恋」がそうだった。男女の心理を描かせるとルコントはやはりうまく、一般受けするかどうかは別にしてファンにはたまらない作品。アンヌ・ブロシェが出ているのもうれしい。「シラノ・ド・ベルジュラック」でロクサーヌを演じていた女優だ。

■ステイ


 ミステリーに幻想的な要素を加えた映画で、観客は上映時間の約一時間四十分、精神科医サム(ユアン・マクレガー)と一緒に出口のない迷路に迷い込んだような体験をする。
 監督は「チョコレート」「ネバーランド」のマーク・フォースター。ニューヨークを舞台に時間、空間を自由に行き来する不思議な感覚に満ちた人間ドラマを生み出した。魂の彷徨(ほうこう)とも言える作品かもしれない。

 ブルックリン橋で起きた交通事故のシーンから始まる。一人助かった青年ヘンリー(ライアン・ゴズリング)を患者としてサムが担当することになったときから、サムの恋人ライラ(ナオミ・ワッツ)も巻き込んで非現実的な現象が起き始める。例えば以前に目撃した出来事がサムの中で繰り返される。悪夢ではないが、同じ夢をまた正確に見たような不安が襲う。

 物語の進行とともに、ある程度、真相が見えてくるものだが、この映画の場合、なかなか見えてこない。ますます霧が深くなるようで謎が深まっていくばかりだ。監督自身「論理的思考より自分の直感を信じて」と観客にアドバイスしている。

 ラストにすべてが明らかになるが、この結末を受け入れるかどうかで、この映画に対する評価は分かれるだろう。

■パイレーツ・オブ・カリビアン デッドマンズ・チェスト

 
あまり期待せずに見に行ったら意外に面白かった。逆に期待しすぎてちょっと失望してしまった。こんな経験は誰にでもあるはず。そこからいくと、一作目は思わぬ拾い物となったが、この二作目は「惜しいな」という気持ちの方が強かった。

 見どころは一応、随所にあるのだが…。ジャック・スパロウ船長(ジョニー・デップ)を窮地に追い込む深海の悪霊デイヴィ・ジョーンズ(ビル・ナイ)が登場したり、帆船を何本もの巨大な触手で破壊する海のモンスターが大暴れしたりする。スパロウとウィル・ターナー(オーランド・ブルーム)、エリザベス・スワン(キーラ・ナイトレイ)の三角関係にも微妙に変化が生まれる。笑いを盛り込んだアクションも健在だ。

 これでゴア・ヴァービンスキー監督の演出にメリハリがあれば言うことなしだった。エピソード自体はそれぞれ面白いが、もう少しドラマに構成力があったなら良質の娯楽作になっていたはず。でも、こういう映画、嫌いではない。欠点はあるが好きだ。往年の海賊映画にあった冒険とロマンを現代によみがえらせてくれたからだ。ただし一作目を見ているのと見ていないのとでは、楽しみ方はだいぶ違う。特にラストがそう。監督には完結編となる三作目での挽回(ばんかい)に期待しよう。

■デスノート前編


 凶悪事件が後を絶たないことで法の裁きや正義に限界を感じた法学部の大学生が、ある一冊のノートを手にしたことで神に代わって犯罪者を裁き始める。

 これで思い出したのが一九七〇年代のアメリカ映画「狼よさらば」シリーズ。街のヤクザに妻を殺されたチャールズ・ブロンソンが復しゅうの鬼と化し、次々と犯罪者を社会から抹殺するという刺激的な内容だった。

 だが、自ら悪に立ち向かったブロンソンに対して、金子修介監督が人気コミックを基に映画化した「デスノート」はだいぶ違う。死に神のデスノートを利用して犯罪者を死に至らしめるからである。このノートには邪悪な力があり、名前を書かれた人間は死ぬ運命にあるという恐ろしい代物である。

 大学生を社会の救世主と見るか、それとも独善的な殺人者と見るか。ただ映画は事件解明に乗り出した天才的な名探偵との頭脳対決に、捜査陣との動きとともに焦点が絞られていく。

 これはこれで面白い。が、もっと大学生の内面にも迫ってほしかった。犯罪のない社会という当初の崇高な理想から徐々にかけ離れていくためで、悪の力に魅せられていく大学生の葛藤(かっとう)が盛り込まれれば人間ドラマとしても膨らみが出たはず。とにかく十一月に公開される後編に期待しよう。

■サイレントヒル

 怖いもの見たさか、館内は女性の姿が意外と目立った。「ジェヴォーダンの獣」のクリストフ・ガンズ監督がつくりだす独自の映像世界が見どころで、観客はゴーストタウンと化したサイレントヒルに、ヒロインと一緒に迷い込むはめになる。

 物語は母親ローズ(ラダ・ミッチェル)の娘捜し。この街で姿を消した娘シャロン(ジョデル・フェルランド)を捜し回るが、ローズを待っていたのは恐怖そのもの。異形の者たちが次々襲う。悪魔の存在や狂信的な宗教集団も絡む。この街で三十年前に起きた悲劇が、娘の失そうと関係していることも明らかになる。ホラーにオカルト、ミステリー色も絡むとあって、見る側は心理的にも頭脳的にもちょっと疲れる。

 ユニークなのは同じ街でありながらサイレントヒルが三つの次元で存在していることだ。霧の深い白い灰が降り続ける静寂に包まれた昼の街、異形の者たちが出現する暗闇の街、そして現実のゴーストタウンと化した街。ローズは昼と暗闇の街に支配される。一度足を踏み入れたら抜け出せない、のろわれた街が真の主役と言える。魔女狩りが物語の核になっていて、話題の「ダ・ヴィンチ・コード」に共通しているのは偶然か。でも一番の驚きは日本発の人気ゲームの映画化だった点だろうか。

■M:i: V


 実行不可能な使命を緻密(ちみつ)な作戦とチームワークで遂行するプロフェッショナルたちの活躍を描いて人気を博したのがテレビシリーズの「スパイ大作戦」だった。映画化は一九九六年。「ミッション・インポッシブル」。今回がシリーズ三作目。原点回帰で、最もテレビシリーズに近いものになった。

 イーサン・ハント(トム・クルーズ)を中心に、男女四人のプロが特技を駆使して、武器密売人オーウェン・デイヴィアン(フィリップ・シーモア・ホフマン)と対決する。チームとしての見せ場が三回ある。仲間の救出、デイヴィアン誘拐、機密資料の奪還。しかも各エピソードがベルリン、バチカン、上海で展開。それぞれの街の特徴を生かしたアクションがスリルとサスペンスを生んでいる。

 「カポーティ」でアカデミー主演賞を受賞した演技派ホフマンの悪役ぶりが見もの。監督はテレビシリーズ「エイリアス」を手掛けて有名になったJ・J・エイブラムス。ハントの恋人にも危機が及ぶなど新たな展開で彼の人間味にも迫ろうとするが、ただ本格スパイものには余計な要素と感じるファンもいるかも。製作を兼ねているせいかクルーズのワンマンショー的な活躍は相変わらず。もう少し仲間に分け与えたなら、もっと面白くなると思うのだが。

■初 恋


 タイトルから受けるイメージとは裏腹に、内容は一九六八年に東京・府中で起きた三億円強奪事件を扱っている。

 と言っても社会派的な犯罪映画ではない。主演が今、朝のNHK連続ドラマのヒロインでおなじみの宮崎あおいで、彼女の心理に焦点が当てられているからで、これは少女の喪失感をテーマにした青春映画でもある。

 この映画の場合、チラシやパンフレットの表紙にも堂々と書かれているのでネタばらしにならないはず。つまり、犯人は女子高生だったという設定で作られたユニークな映画である。宮崎がその女子高生みすずを演じている。初恋と三億円強奪事件がどう結び付くのか、これが最大の見どころである。

 この二つを結ぶのが新宿の繁華街にあるジャズ喫茶。孤独な境遇のみすずが見つけた安らぎの場で、そこには目的を見失い体制や権力に反発する若者たちがたむろしている。その中の一人で、物語の鍵を握る東大生の岸(小出恵介)と出会う。当時、吹き荒れた大学紛争を背景にしているのも興味深い。時代の空気を生々しく反映させながら、一人の少女の心の軌跡をカメラはとらえていく。

 塙幸成監督が、完全犯罪と言われた三億円強奪事件の真相を少女の恋と絡めて描き、世代を超えた共感を呼んでいる。
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